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品番:C-2489

価格:売却済

墨 15✖

この墨は水とともに磨って用いる固形墨で中国の墨だと思われます。
かたちも綺麗に残っており、保存状態も良く大切に仕舞われてきた作品です。
最近では中国の文房具が人気があり、このような昔の墨や硯に人気があります。
この墨は日本の書道家が持っておられた品物ですが、大切に保存させて来られた 逸品 だと思われます。

 

このような固形墨の場合は「墨は成長する」という言葉があり、特に20年から50年経ったものは「古墨」と呼ばれ珍重されるるようで、この墨もそうです。
またこの墨のような固形墨の製法は墨の原料である膠は動物性たんぱく質で腐敗しやすいため、伝統的な墨は暑い時期には製造できません。
ご覧のように保存状態も良く、大切に使われてきた古墨です。
このような墨ですが、中国の古墨は特別高価に買取いたします。

 

この墨は固形墨で中国の昔の墨です。墨とは、煤、膠、香料を主原料とする 書画 材料で出来ています。
保存状態 も良く、大切に仕舞われてきた逸品です。
この墨も昔の墨ですが、日本の江戸時代頃の中国の墨は高価買取させて頂きます。
この作品は、競り市やオークションで買い受けた作品ではありません。
直接お客様より買い受けた、うぶ荷と呼ばれる貴重な蔵出しの作品で、現状のまま販売しております。

 

 

墨(すみ)とは、煤(すす)、膠(にかわ)、香料を主原料とする書画材料[1][2]。
煤や膠に少量の香料などを加えて練和し木型に入れて乾燥させたものは摺墨ともいう[3]。
このような硯で水とともに磨って用いる固形墨(こけいぼく[4])のほか、手軽に使えるよう液状に製造した液体墨(えきたいぼく)もある[1]。
固形墨を摺った液や液体墨は墨汁(ぼくじゅう)または墨液(ぼくえき)とも呼ばれる。

固形墨
製法
墨の原料である膠は動物性たんぱく質で腐敗しやすいため、伝統的な墨は暑い時期には製造できない[1]。

採煙
植物油等を入れた素焼きの器の灯心に点火して蓋についた煤を採取する[1]。
混和・混練
湯煎などで膠を溶かして煤と合わせて混和機などで混和・混練し、さらに香料を加えて職人が手練りを行う[1][2]。
型入れ
伝統的な製法では手練りの工程で十分に墨玉を練り、これを4つのパーツからなる木型に入れて数十分放置することで膠が冷えて成型時の形状が保持される[1][2]。
乾燥
木型から取り出し、1日目は水分が多めの木灰、2日目は水分が少なめの木灰の中で乾燥させ、さらに木灰から取り出して1〜2か月乾燥させる[1]。
彩色・包装
乾燥後に水洗いし表面を磨いてから金粉や銀粉などで彩色する[1]。
古墨
固形墨の場合は「墨は成長する」という言葉があり、特に20年から50年経ったものは「古墨」と呼ばれ珍重される[1]。

工芸品としての墨
墨を練る技術以外に、高級品では墨の形も美術工芸的に重要となる。墨型彫刻師が木型を製作し、多様な形態が珍重される。日本で墨型彫刻を専業で行なう工房は、2014年時点で奈良の中村雅峯(「型集」7代目)ただ一人[19][20][21]。

墨の造り方 (固形墨)

1, 採煙(手焚油煙)
素焼の皿に植物油を入れ灯芯を燃やし、 素焼の蓋に付いた煤を採取する。油は主に 菜種油が使われます。

灯芯は藺草(いぐさ)の芯です。植物油は菜種油が 一般的で、他に胡麻油や大豆油などを使用します。手焚以外に機械焚きの油煙があります。

採煙(
2, 膠の溶解
原料の膠を二重釜に入れ長時間煮て液体にする。膠は動物の皮からとったコラーゲンを含むたんぱく質の一種 (ゼラチン)です。

膠は動物の骨や皮や筋などに水を加え煮沸抽出した動物性タンパク質です。動物の種類は牛、水牛、馬、鹿などで外国からの輸入です。墨用膠は表皮の下にある真皮といわれる部分で製革や膠、ゼラチンになります。

膠の溶解
3, 混和
煤と膠の溶液を混和機に入れ練り合わせる。 墨の良否を決定する重要な作業で,よく練るほどのびのよい書きやすい墨ができます。

現在は混和機という機械で練っていますが、昔(明治末まで)は手足を使って練っていました。まず、機械に煤(松煙や油煙)を入れしばらく、機械を動かした後膠液を入れて練り上げます。黒いお餅のような状態になります。

混和
4, 型入れ
練り上がった墨の玉をもみ板の上にひろげ、手足を使って揉み込みます。その際、膠のにおいを隠すために香料を入れよく揉み込みます。その後、木型の大きさに合わせて墨の玉を小取りし、目方を量ります。そして、手でよく揉み木型に入れ成型します。

もみ板は、松材でできており板の下にはヒーターが入っています。墨の玉は温度が低くなると硬くなるからです。温度は約35℃前後です。香料は龍脳や麝香などいろいろな香りを混合して使います。

型入れ
型入れの際は、空気の入らないようによく揉み込むことが大切です。型入れ後、プレスに掛け60分~90分前後して型出しします。取り出した墨は、まだ柔らかく、水分が多いためすぐに生箱に入れ乾燥をふせぎます。そして乾燥室へ・・・

木型の材質は、梨の木を使います。梨以外では桜などもありますがあまり使われていません・職人さんは、型コジという道具を使って木型のフタをあけて墨を取り出します。型コジは切り出しナイフの刃の付いてない物。

型入れ2
5, 耳削り・乾燥
型出しされた墨は1日乾燥後、耳削りをします。その後木灰の入った箱に墨をいれ乾燥させます。木灰は最初一番水分の多い灰を使い順に水分の少ない灰に換えていきます。灰乾燥が終われば自然乾燥へと移っていきま す。

乾燥期間は灰乾燥で1ヶ月~3ヶ月、墨の大きさによって変わります。自然乾燥は半年~一年。これも大きさにより変わります。乾燥に使う道具は灰を入れる箱/舟、新聞紙、木灰、稲わらなどです。

耳削り・乾燥
6, 彩色
乾燥が終われば表面を磨いて美しく仕上げます。その後、金・銀・朱などで文字の部分を、彩墨で図柄の部分を彩色します。この作業は今でも熟練工の手作業になります。また、レーザー彫刻機による「名入れ墨」や「オリジナルデザイン墨」も製造しております。

墨のはなし
墨は炭素末(たんそまつ)(煤=すす)と膠(にかわ)と少しの香料をねり合せてできています。
すすは、黒々とした墨の色を示し、膠は紙や木に書かれたすすを定着させる働きをし、香料は膠のにおいを消し、
清い香りをもって書く人の気持ちをやわらげる役割をはたします。
墨は気温が高く湿気の多い夏場は膠がくさりやすく、墨づくりには適しません。
そのため墨づくりは毎年10月中旬から翌年4月下旬までの寒期に行ないます。
こうしてできる墨の起源は、中国、殷の時代(紀元前1,500年頃、約3500年前)にさかのぼります。
そして漢の時代に入り、後漢(25~220)の時、105年に蔡倫(さいりん)が紙を発明し、これに伴ない墨の需要が急速に高まり、
現在ある墨の原形となるものが生れ、唐の時代(618~907)には今日の墨の形が整えられました。
この頃には中国、朝鮮、日本の交流は盛んになり、当時の墨が日本に伝来し、正倉院に今もなお宝蔵されています。
中国四千年の歴史や文化、飛鳥(あすか)時代からの日本の歴史や文化は、墨によって今に伝えられました。
千年以上をへた書跡に残る鮮やかな墨の色を見る時、墨のいのちの長さに感嘆せざるをえません。
墨は筆記具としての使命をはたしつつ、書画芸術の担い手としてそ の墨色が大変重要になってまいります。
「墨は黒いだけでなく、その黒の中に七色を味わうというように、まず紫光色がよく、黒色はその次であり、青光色は更にその次となる。
しかもそれはうわついた光ではなく底光するような色で、硯ですってみて清い香りがし、音のしないものがよい」と言われています。

墨づくり日本に伝わる
我国は飛鳥時代には中国(隋・唐)や朝鮮半島の国々(百済・髙句麗・新羅)と盛んに交流し、それらの国々の政治や文化を次々と取り入れて行きました。
日本書記巻二十二、推古天皇の条に、「十八年春三月、髙麗(こま)の王、僧曇徴(どんちょう)と法定(ほうじょう)とを貢上(たてまつ)りき。曇徴、五経を知り、またよく彩色及び紙墨を作り・・・」とあります。
これが、我国に墨がもたらされたことを告げる最初の文献です。推古天皇十八年は西暦610年に当たります。
大化改新で制定された「大宝律令」には、中央官庁八省のうちに中務省があり、製墨を司どる省として造墨手が置かれました。
奈良時代に入ると仏教が大いに興り、写経生たちは膨大な量の写経を行ない、中でも墨は貴重品扱いされていました。
正倉院には、現在する最古の墨(墨14丁、白墨2丁)が保存されています。
「華烟飛龍鳳皇極貞家墨」「新羅揚家上墨」「新羅武家上墨」が特に有名です。
平城京では、図書寮(ずしょりょう)で造墨手4人で400丁余りの墨がつくられていました。 平安時代に入りますと、仮名文字が発明され、文字が一般化されて墨の需要が一段と高まりました。
この時代に制定された「延喜式」によりますと、墨は奈良だけでなく、丹波国、播磨国、大宰府でもつくられたことが記され、また平安後期には、紀州藤白(代)墨、播磨淡路墨が有名ですが、墨の原料の「すす=煤」を松の木やヤニを燃して採取することから、松の豊富な山をもつこれらの地域で「すす」を採り、墨をつくったのでした。

墨の歴史 日本編
日本書紀の記事
墨の歴史 日本編
日本の墨についての記録は「日本書紀」巻22に「推古天皇の18年春3月高麗王、僧曇徴よく紙墨をつくる」というのが最も古いものとされています。
今日では最古の墨として正倉院に中国と朝鮮の墨が保存されていますが、この文章からするとこの墨は、当然のことながら朝鮮を経てきたものだということが言えます。
今日、正倉院に伝えられる墨は、中国と朝鮮のものです。
しかしながら古墳時代の壁画などには、墨、朱、緑、黄などが見えるところから、もっと早い時期から外国より伝わっていたという説もあります。
推古天皇の時代は、中国の熱心な仏教文化の影響を受け、日本でも写経なども盛んに行われるようになり、
輸入だけでは需要に追いつかず製造をするようになったと考えられます。

文武天皇の大宝元年(701年)に制定された大宝令によれば、中務省の図書寮に造墨手4人を置いたとあり、
延喜式(927年)にも図書寮の項に「凡そ年料に造るところの墨400挺(....中略)長上1人造手4人」とあり、
神祇官に墨1挺、斎宮寮に3挺というように配分の記録があります。また、この項には、筆店の名が見え、いわば官製のほか民間でも製造販売しておりました。

殷・周時代
墨の歴史 中国編
中国では 殷・周 時代(B.C.1700-B.C.770)に書かれたと思われる土器や木簡、帛書などが発掘されております。墨らしきものが実在したことは確認できますが、どのような物であったかは定かではありません。しかし、漢時代(B.C.206-A.D.220)には小さな墨丸といわれる球形のものであっただろうと発掘された硯の形から推測されます。当時の硯は墨池のない平面の物が殆どで磨石がついており、この磨石で平面硯の上で小さな墨丸をすり潰したようです。原料は宋代の【墨経】によれば、松煙を中心に始まったと推測されます。後漢の時代に蔡倫によるといわれる紙の発明により、必然的に文字も大きく書かれるようになり、墨丸の墨では間に合わず墨の形も球状から磨り易い現在の墨の形の基礎が出来たと思われます。その後、唐時代(A.D.618-960)になると墨匠という墨造りの名士が出てくるようになり、多くは易州に住んでいましたが世が乱れ徽州に移り住んだことにより墨の産地として知られるようになり、徽墨の名をもって呼ばれるようになりました。 南唐の李後主は廷珪に李姓を与え墨務官に任命したのですが、これが徽州(安徽省)の墨業を盛んにし今日まで伝わっています。宋時代(A.D.960-1280)には文墨趣味が盛んになり、製墨業も栄え、南宋時代には油煙墨が普及するようになったと言われています。

墨丸と硯
明時代(A.D.1368-1644)は文化において豪華絢爛さを示し、製墨業も隆盛を極めた時代で、墨も宋代までは松煙墨が中心であったが、油煙墨となり程君房、方于魯が代表的墨匠と言われております。この時代に様々な墨譜が発刊されましたが、有名な物に程氏の「程氏墨苑」、方氏の「方氏墨譜」があります。この時代の墨は製法はもとより用途、さらに鑑賞墨にも幅広い展開を見せるようになり、古墨といえば明墨というように代表的な意匠を確立するようになりました。

清時代(A.D.1644-1911)は、乾隆帝の文化政策から製墨業は一段と盛んになり、「乾隆御墨」として現在に伝わっております。

買取実績 PURCHASE RECORD

老舗骨董店の当店ならでは1000点以上の買取実績を写真入りでご覧ください。

茶道具出張買取依頼を頂き、染付の抹茶道具や水指をお譲り頂きました。

写真が8枚あります。くわしくはこちら この 水指し は永楽善五郎(和全)の作品で、江戸時代から明治時代頃に作られた 陶磁器 の水指で買取させて頂きました。茶の湯 では夏のお 茶会 で好んで使われていた 逸品 らしく、保存状態 も良く傷んでいる所は無く、買取ました。綺麗な 染付 で上品でしっとりした茶の湯では人気の水指だったと思われます。茶の湯 の茶人はこのような趣のある作品を好まれるようで、茶道具 には多くの種類の 諸道具 が残されています。この作品は、競り市やオークションで買い受けた作品ではありません。直接お客様より入荷した、うぶ荷と呼ばれる貴重な蔵出しの作品で、現状のまま販売しております。 永樂 和全(えいらく わぜん、1823年(文政6年)-1896年(明治29年)5月7日)は、19世紀に活躍した 京焼 の 陶芸 家。 千家十職 の一つ、土風炉師・善五郎の十二代である。江戸後期を代表する 陶芸家 の一人永樂保全(十一代善五郎)の長男で、幼名は仙太郎。十二代善五郎を 襲名 したのは1843年であり、1871年に息子の得全に善五郎の名を譲って隠居し、以降は善一郎と名乗った。