濤川惣助 買取

濤川惣助の作品の特徴は無線七宝で、国内外の博覧会で数々の賞を受賞し、作品は国内に殆ど残っていません。
現在、日本に残っている濤川惣助の無線七宝の作品が有れば、高価買取対象です。
濤川惣助の技法は、それぞれの釉薬の境界で釉薬が微妙に混ざり合い、微妙な色彩や濃淡の日本画的な表現です。
彼の出品作品や無線七宝の名品は、数百万円の買取価格で高価に買取させて頂けると思われます。

日本一、歴史ある京都祇園骨董街にあります。

京都は千年も続いた都です。
京都祇園骨董街の中でも当店は、歴史的保全地区に指定されています。
約80軒の古美術骨董商が軒を連ねる、
日本でもトップの祇園骨董街にある老舗の骨董店です。

京都祇園で小売販売している老舗骨董店だからこそ高価買取出来るのです。

世界各国から1日100名近くのお客様がご来店頂いております。
店頭には買取商品を常時2000点以上展示販売しており、愛好家やコレクターの方が品物の入荷をお待ちです。

買取依頼のお客様に納得して頂くことを第一と考えております。

ホームページや店頭にて販売する価格を提示して、買取りさせて頂いております。
是非、ご来店頂くか、ホームページをご覧下さい。
京都祇園で昭和56年に開業、長年の信頼と実績があります。

京都美術倶楽部大阪美術倶楽部鴨東古美術会京都古書組合東京古書組合に加盟しております。

濤川惣助と濤川七宝の作品ー査定・買取ポイントのアドバイス

濤川惣助(なみかわ そうすけ)

1847年(弘化4年)に現在の千葉県旭市で農家の次男として生まれた。
18歳のとき江戸に出て酒商を営んでいたが、家業を弟に譲り瀬戸,岡崎,名古屋などの 陶芸 作品の視察研究し始めるうちに、七宝焼が欧米で盛んに賞美されていることを知り、明治10年アーレンス商会の七宝工場を譲り受け海外輸出を計画した。
江戸時代の鎖国の徳川幕府から国際化の波も押し寄せ、移り変わりの激しい大変な時代でした。
明治時代は機械工業が未熟の日本にとって国際的に活躍するには、伝統工芸品 の輸出は貴重な産業で、工芸品 の輸出を奨励した。
七宝焼が欧米で盛んに賞美されていることを知った、濤川はこの流れに乗ったのです。

その後、努力研究を重ね、銅線を輪郭線とする 伝統 的な 有線七宝 技法を改め、柔らかな無線七宝の革新的な 技法 を確立。
無線七宝 は、最終的に釉薬を焼き付ける前の段階で敢えて植線を取り外して、これにより 図柄 の輪郭線がなくなります。
それぞれの 釉薬 の境界で釉薬が微妙に混ざり合うことで日本の 水彩画 のような、微妙な色彩のグラデーションや濃淡やぼかしなどの絵画的表現を可能にしました。
また、一つの作品の中で有線七宝と無線七宝を使い分けることによって、遠近感や水面に映る影を表現することにも成功している。
作品の図柄には 日本画 的なものが多く、柔らかな無線七宝の表現と調和するためか乳白色等の淡い色彩の地のものが多くあります。

それらの作品は、海外でも高く評価され多くは輸出され、美術館や博物館以外は国内に殆ど残っていません。
現在、日本に残っている濤川惣助の無線七宝の作品は、貴重な作品で特別高価買取対象作品です。

明治23年(1890年)伝統的な美術工芸の技術を発展させようと作られた帝室技芸員制度にも選ばれました。
またこの時期またこの時期、京都の有線七宝の並河靖之、東京の無線七宝の濤川惣助、が同時に帝室技芸員となりました。
国内では「東京の濤川、京都の並河」帝室技芸員「2人のナミカワ」と国内外の美術 愛好家 にも広く知られていました。
欧米で大好評を得てアムステルダム万博、ロンドン万博では金牌綬章、パリ万博では名誉大賞を受賞、日本のの内国勧業 博覧会 などで受賞しており、国内外の博覧会でも数々の賞を 受賞
濤川惣助は無線七宝の素晴らしい作品を残しておりますが、国内に殆ど残って無いのが残念です。
現在、日本に残っている濤川惣助の無線七宝の作品が有れば、特別高価買取させて頂きます。

濤川惣助の作品  作風と買取価格のワンポイント


無線七宝で、それぞれの釉薬の境界で釉薬が微妙に混ざり合うことで日本の水彩画のような、微妙な色彩のグラデーションや濃淡やぼかしなどの絵画的表現の作品も特別高価買取させて頂きます。
上記の技法で高蒔絵のように盛り上がり制作された作品も高価買取させて頂きます。
現在、日本に残っている濤川惣助の無線七宝の作品が有れば、高価買取対象です。

 

 
1847年(弘化4)~1910年(明治43)64歳没。
1847年(弘化4年) 現在の千葉県旭市で農家の次男として生まれた。
1865年(慶応元年)18歳のとき江戸に出て酒商を営む
1870年(明治2年) 陶業を視察し、七宝焼 が欧米で盛んに賞美されていることを知る。
1877年(明治10年)アーレンス商会の七宝工場を譲り受け海外輸出して、七宝家に転進
1879年(明治12年)釉薬が微妙に混ざり合うこと軟らかな表現を生み出す無線七宝を発明した。
1881年(明治14年)に開かれた第2回内国 勧業博覧会 では名誉金牌を受64賞する。
1884年(明治17年)万年自鳴鐘が大修理が行われ、六角形の台座の側面六面に七宝の 装飾品 を濤川惣助が制作した。
1885年(明治18年)ロンドン万博では金牌を受賞。
1887年(明治20年)日本画特有の覗かで、優雅な 画風 の表現を七宝技術で開発して独自の作品の新境地を開いた。
1889年(明治22年)パリ万博では名誉大賞を受賞。「七宝桃色暈 花瓶」を献上する。
1893年(明治26年)コロンブスシカゴ万国博覧会への出品し、その後 重要文化財「七宝富嶽図額」となりました。
1896年(明治29年)創意工夫や努力と技術が認められ 帝室技芸員 に任命。
1910年(明治43年)肺炎で死去。
 

 

濤川惣助の作品をお持ちのお客様、お気軽にご相談ください。

濤川惣助の作品の場合は、購入された時から入っている箱(共箱)は大切な箱で、共箱には濤川惣助の自筆のサインと 落款 が押されています。共箱は、保証書も兼ねており、有る・無しで、買取価格は大きく変動します。

汚れや傷みがある場合でも、現状のままお持ちください。

鑑定証 の有無に関わらず、まず当店で無料の 真贋 の判断やアドバイスをさせて頂きますので、お電話でご相談ください。一般的に 絵画 の 鑑定 は、美術俱楽部やそれぞれの指定された 鑑定機関 で行われており、その場合、真贋を問うだけで、約3万円~5万円かかり、有料です。

【所定鑑定人・鑑定機関

濤川惣助の場合、鑑定機関はありません。

 

当店では高額な作品も扱っております、一例ですがご覧ください。
お買取りさせて頂いた作品は価格を表示してホームページや店頭で販売しています。

濤川惣助をはじめ買取させていただいた作家の作品も数多くあります、是非ご覧ください。

当店には濤川惣助の愛好家やコレクターのお客様もおられ、新しい作品の入荷をお待ちです。
濤川惣助の作品をお持ちのお客様は、お気軽にご相談頂ければ、適切なアドバイスをさせて頂きますので、是非お問い合わせ下さい。

 

古美術やかたの店内写真

メディアにも多数ご紹介いただいております

TV出演お断りの理由は「古美術やかたの特長」や「買取のお客様必見」を詳しくご覧下さい。

日本全国対応致します
まずはお問い合わせください

お問い合わせのお電話番号

075-533-1956

11:00~18:00(定休日:月・火)

※ご予約の買取業務は定休日も行っております。

 

買取は古美術やかたへ!老舗骨董店ならではの6つの技

 

 

濤川惣助(なみかわ そうすけ) 

1847年(弘化4年)に現在の千葉県旭市で農家の次男として生まれた。
18歳のとき江戸に出て酒商を営んでいたが、家業を弟に譲り瀬戸、岡崎、名古屋などの 陶芸 作品の視察研究し始めるうちに、七宝焼が欧米で盛んに賞美されていることを知り、明治10年アーレンス商会の七宝工場を譲り受け海外輸出を計画した。

明治時代のこの時期は、新しい時代と 古い時代 が重なり、江戸時代の鎖国の徳川幕府から国際化の波も押し寄せ、移り変わりの激しい大変な時代でした。明治時代は機械工業が未熟であった日本にとって国際的に活躍するには、伝統工芸品 の輸出は貴重な外貨獲得する産業と位置付けられ、工芸品 の輸出を奨励した。
七宝焼が欧米で盛んに賞美されていることを知った、濤川はこの流れに乗ってアーレンス商会の七宝工場を譲り受け海外輸出を計ったのでした。

その後、努力研究を重ね、銅線を輪郭線とする 伝統 的な有線七宝 技法 を改め,柔らかな無線七宝の革新的な技法を確立しました。

無線七宝とは、濤川惣助の独自の世界で、濃淡やぼかしなどの絵画的表現を可能にしました。
無線七宝では最終的に釉薬を焼き付ける前の段階で敢えて植線を取り外して、これにより 図柄 の輪郭線がなくなり、それぞれの釉薬の境界で 釉薬 が微妙に混ざり合うことで日本の 水彩画 のような、微妙な色彩のグラデーションが生まれ、写実的 で立体感のある表現や軟らかな表現を生み出すことが可能になっている。明治時代の無線七宝では日本を代表する七宝作家です。
また、一つの作品の中で 有線七宝 と無線七宝を使い分けることによって、遠近感や水面に映る影を表現することにも成功している。
作品の図柄には 日本画 的なものが多く、柔らかな無線七宝の表現と調和するためか乳白色等の淡い色彩の地のものが多くあります。

濤川惣助の独自の 無線七宝 の作品は、海外でも高く評価され多くは輸出され、国内に残っている濤川惣助の作品は少ししかありません。
花瓶や 小箱 等の濤川の七宝作品の多くは海外にわたり、美術館や博物館以外は国内に殆ど残っていません。
現在、日本に残っている濤川惣助の 無線七宝 の作品は、貴重な作品で特別高価買取対象作品です。

濤川惣助は明治29年(1896)に 帝室技芸員 に任命されました。
またこの時期京都の七宝作家、並河靖之も綿密な植線と優れた色彩感覚によって有線七宝を極めました。
東京の濤川惣助は無線七宝の 技法 を確立し、濃淡やぼかしなどの絵画的表現を極め、並河靖之と濤川惣助はともに、明治29年(1896)の同時期にに帝室技芸員に任命されました。
国内では「東京の濤川、京都の並河」帝室技芸員「2人のナミカワ」と国内外の美術 愛好家 にも広く知られていた。
帝室技芸員制度とは、明治23(1890)年、日本の伝統的な 美術工芸品 の技術を発展させようと、国の(当時は皇室)保護のもと継承・発展させることを目的として作られた制度で、現在でも人気のある著名な作家が多くおられました。

「七宝桃色暈花瓶」明治22年(1889年)東京彫工会第4回競技会出品後、献上。
「七宝貼込 屏風」 二曲一隻 明治23年(1890年)第3回内国 勧業博覧会 妙技二等賞を受賞する。
「七宝富嶽図額」明治26年(1893年) シカゴ万国博覧会絵画部門出品されその後 重要文化財 となる。
「七宝寰宇無双図額」明治27年(1894年) 日清戦争に際しての明治天皇広島大本営駐留時に献上された。
無線・有線七宝の「七宝製墨画月夜森林図額」 明治33年(1900年)パリ万国博覧会第十五部第九十四類七宝部門大賞。
「七宝桜図花瓶」 一対 明治43年(1910年)制作、等々多くの優れた作品を残しました。

明治政府は当時の欧米で頻繁に開催されていた万国博覧会を、日本独自の 伝統工芸品 を宣伝する格好の場所として利用していった。
濤川惣助はこの流れに乗って国内外の 博覧会 に作品を出展して数々の賞を受賞し、人気を博して作品の販売も順調にすすんだ。

大正期に入ると人件費の高騰・物価高・外国人観光客の減少から七宝焼きは輸出量が激減。
販売高の9割が外国需要とも言われた七宝焼き業界は大打撃を受け、衰退していきました。

 

濤川惣助の主な出来事や作品の年表

1847年(弘化 4年)に下総国鶴巻村(現・千葉県旭市)で農家の次男として生まれた。
1865年(慶応元年)18歳のとき江戸に出て酒商を営む。のち家業を弟に譲り陶業を視察し、七宝が欧米で盛んに賞美されていることを知る。
1877年(明治10年)アーレンス商会の七宝工場を譲り受け海外輸出を計ったのが、七宝家に転進。
1877年(明治10年)に開催された第1回内国 勧業博覧会 を見て、七宝の素晴らしい芸術的魅力に魅了され、七宝家の道に転進した塚本貝助ら尾張七宝の職人達が制作していた、東京のドイツのアーレンスの七宝工場を買い取る。
1879年(明治12年)釉薬を焼き付ける前の段階で敢えて植線を取り外して、釉薬 が微妙に混ざり合うこと軟らかな表現を生み出す 無線七宝 を発明した。
1881年(明治14年)に開かれた第2回内国勧業博覧会では名誉金牌を 受賞 する。
1883年(明治16年)のアムステルダム万博で金牌を受賞。
1884年(明治17年)二代目久重の依頼により万年自鳴鐘が大修理が行われ、このとき六角形の台座の側面六面に七宝の 装飾品 を濤川惣助が制作した。
1885年(明治18年)のロンドン万博では金牌を受賞。
1887年(明治20年)アーレンス商会と同じく尾張七宝の職人達を擁していた名古屋の大日本七宝製造会社の東京分工場も買収して躍進していった。無線七宝で描画の輪郭に真鍮の細線を使わず、マット調の光沢のない絵の具を発明開発して、濃淡やぼかしによる 日本画 特有の覗かで、優雅な 画風 の表現を七宝技術で開発して独自の作品の新境地を開いた。
1889年(明治22年)開催されたパリ万博では名誉大賞を受賞。東京彫工会第4回競技会出品後、献上する。「七宝桃色暈花瓶」
1890年(明治23年)第3回内国勧業博覧会妙技二等賞を受賞する。
1893年(明治26年)のシカゴ、コロンブスシカゴ万国博覧会への出品作品の「七宝富嶽図額」その後重要文化財となりました。
1894年(明治27年)第4回内国勧業博覧会に出品予定で制作された「七宝寰宇無双図額」が、戦争の為、明治天皇献上。
1896年(明治29年)その優れた創意工夫や努力と技術が認められ帝室技芸員に任命。
1900年(明治33年)渡辺省亭原画 「菊花図花瓶」パリ万国 博覧会 第十五部第九十四類七宝部門大賞を受賞する。
1910年(明治43年)肺炎で死去。

機械工業が未熟であった明治時代の日本にとって 伝統工芸品 の輸出は貴重な外貨獲得する産業と位置付けられ、工芸品 の輸出を奨励した。
明治政府は当時の欧米で頻繁に開催されていた万国博覧会を、日本独自 の伝統工芸品を宣伝する格好の場所として利用していった。
濤川はこの流れに乗って国内外の 博覧会 に作品を出展して数々の賞を受賞し、人気を博して作品の販売も順調にすすんだ。
花瓶 や小箱等の濤川の 七宝焼 の作品の多くは輸出用で海外にわたり、美術館や博物館以外は国内に殆ど残っていません。

 

 

買取商品一覧

  • 金工作品
  • 根付
  • 竹籠
  • 煎茶道具
  • 刀装具
  • 印籠
  • 中国美術
  • 李朝
  • 鍔・小柄
  • 兜
  • 日本画
  • 古陶器
  • 甲冑
  • 銀製品
  • 掛軸
  • 伊万里
  • 鉄瓶
  • 櫛・帯留
  • 浮世絵・版画
  • 骨董品の翡翠
  • 銀瓶
  • 仏画
  • 洋画
  • 骨董品の珊瑚

 

販売商品 PRODUCT

お買取りさせて頂いた品物はこのように価格表示してお店やホームページで販売、掲載しております。

 

買取作家一例

お問い合わせ・買取のご相談

075-533-1956 11:00~18:00(定休日:月・火)

※ご予約の買取業務は定休日も行っております。

FAX 075-571-8648

 

買取方法と流れ

★出張買取 出張・査定・見積り、全て費用は無料

★宅配買取 送料無料、買取価格保証

★全て現金でお支払い

 

 

買取実績 PURCHASE RECORD

老舗骨董店の当店ならでは1000点以上の買取実績を写真入りでご覧ください。

中国美術の昔の玉で出来た湯冷ましを茶道具出張買取依頼を頂き、お譲り頂きました。

写真が13枚あります。くわしくはこちら 中国 骨董品 の湯冷ましで、時代は清朝時代の作品だと思われます。可愛いモチーフで、丁寧に彫られた昔の 職人技 が光る湯冷ましで、色味 も素晴らしい 逸品 で買取ました。採光の加減で白く光っておりますが、ご覧のように 保存状態 の良い品物で、傷んでいるところはありません。ご覧のように細部まで丁寧に作られており、非常に出来の良い作品で高価買取させて頂きました。この作品は、競り市やオークションで買い受けた作品ではありません。直接お客様より入荷した、うぶ荷と呼ばれる貴重な蔵出しの作品で、現状のまま販売しております。 湯冷ましについて少し説明します。 お茶に使用する湯を冷ますための茶器で、湯の温度を効率良く下げるため底より口の方が大きく作られています。日本独特のお茶である玉露は60℃前後が適温ですが、ティーポットややかんで沸かしたてのお湯は熱いので、美味しくお茶を頂くのに方法として湯冷ましが作られました。湯冷ましは日本独特のお茶の玉露を最高の状態で美味しく飲む道具として作られ、日本が考えた独自の茶道具です。

 

アクセス

京都市東山区大和大路通新門前上ル西之町197番地