種田山頭火 買取
種田山頭火は人生の苦難や苦労を経験し、自分の生命と生涯を自然に委ねた詩人です。 京都は千年も続いた都です。 世界各国から1日100名近くのお客様がご来店頂いております。 ホームページや店頭にて販売する価格を提示して、買取りさせて頂いております。
法衣と笠をまとうと鉄鉢を持って熊本から西日本各地へと、七年間の行脚に旅立ちます。
鉄鉢を持ち、法衣と笠の姿、その行乞の旅で山頭火ならではの多くの歌が生まれました。
種田山頭火の主要な作品や名品は高価買取させて頂きます。
日本一、歴史ある
京都祇園骨董街にあります。
京都祇園骨董街の中でも当店は、歴史的保全地区に指定されています。
約80軒の古美術骨董商が軒を連ねる、
日本でもトップの祇園骨董街にある老舗の骨董店です。京都祇園で小売販売している
老舗骨董店だからこそ高価買取出来るのです。
店頭には買取商品を常時2000点以上展示販売しており、
愛好家やコレクターの方が品物の入荷をお待ちです。買取依頼のお客様に納得して頂くことを
第一と考えております。
是非、ご来店頂くか、ホームページをご覧下さい。
京都祇園で昭和56年に開業、長年の信頼と実績があります。
種田山頭火の作品ー査定・買取ポイントのアドバイス
種田山頭火(たねだ さんとうか)
種田山頭火は、大正~昭和に活躍した自由律俳句の俳人です。季語や五・七・五という俳句の約束事を無視し、自身のリズム感を重んじる「自由律俳句」を詠みました。山頭火とだけ呼ばれることが多くあります。
幼い時に母が自殺をしたことが、山頭火の生涯に大きな衝撃を与え、1902年(明治35)早稲田大学文科に入学しましたが、神経衰弱のため退学して帰郷しました。
1911年(明治44)29歳の頃に、防府の文芸誌「青年」が創刊し、作品や 随筆家 のような評論を発表しました。
31歳の頃より「山頭火」の 号 を本格的に使い始め、34歳の頃には 独学 で、俳句誌の選者の一人となりました。
この頃実家の倒産や家が破産、また妻子と別れ上京するも病で退職し、関東大震災で焼け出され、再び別れた妻の元に帰る。
苦難や苦労の末、縁があり、曹洞宗 報恩寺で出家得度、1926年修行僧姿で日本中を旅し、自由律による句作をしました。
貧しい生活の中、漂泊中につくられた、生命を自然に委ねた自在闊達な句は高く評価されています。
主要な句集に「鉢の子」「草木塔」「山行水行」、最晩年には「草木塔」を発表しました。
種田山頭火の作品 画風と買取価格のワンポイント
種田山頭火の独自の画境を表現した掛軸や一行書、墨蹟作品は高価買取対象です。
また出品作品や来歴がある名品、また晩年の全盛期の作品も高価買取させて頂きます。
漂泊中につくられた生命を自然に委ねた自在闊達な心境を詠んだ句は高く評価されています。
種田山頭火は、墨蹟 作家の中でも人気が低迷していない作家で、現在でも人気の詩人です。
種田山頭火の作品をお持ちのお客様、お気軽にご相談ください。
掛軸の場合は、購入された時から入っている箱(共箱)は大切な箱で、共箱には種田山頭火の自筆のサインと 落款 が押されています。
共箱は、保証書も兼ねており、有る・無しで、買取価格は大きく変動します。
シミや汚れがある場合でも、現状のままお持ちください。
鑑定書 の有無に関わらず、まず当店で無料の 真贋 の判断やアドバイスをさせて頂きますので、お電話でご相談ください。
一般的に絵画の 鑑定 は、美術俱楽部やそれぞれの指定された鑑定機関で行われており、その場合、真贋を問うだけで、約3万円~5万円かかり、有料です。
【所定鑑定人・鑑定機関】
種田山頭火の場合、鑑定機関はありません。
当店では高額な作品も扱っております、一例ですがご覧ください。
お買取りさせて頂いた作品は価格を表示してホームページや店頭で販売しています。
種田山頭火をはじめ買取させていただいた作家の作品も数多くあります、是非ご覧ください。
当店には種田山頭火の愛好家やコレクターのお客様もおられ、新しい作品の入荷をお待ちです。
種田山頭火の作品をお持ちのお客様は、お気軽にご相談頂ければ、適切なアドバイスをさせて頂きますので、是非お問い合わせ下さい。
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メディア紹介 MEDIA
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- 『和楽』7月号 樋口可南子さんがお店へ!!
- 『婦人画報』2012年5月号
- 『樋口可南子の古寺散歩』(5月17日発行)
- NHK「趣味Do楽」とよた真帆さんご来店!【動画】
- NHK『美の壺』(4月24日放送)
- 『和楽』10月号
- 『Hanako 京都案内』
- 『FIGARO japon』12月号
- 『mr partner』2011年2月号
- 2009年11月 『週刊現代』2009年11月28日号
- 『Hanako WEST』4月号
- 『骨董古美術の愉しみ方』(4月16日発行)
- 『近代盆栽』9月号
- 『Hanako WEST』11月号
- 『ORANGE travel』2006年 SUMMER
- 『婦人画報』2004年9月号
- 国際交流サービス協会に2017年6月7日紹介頂きました。
- 『Grazia』6月号
- 『VISIO ビジオ・モノ』5月号
- 『Hanako WEST』4月号
- 『gli』11月号
- オレンジページムック『インテリア』No.23
- 『MORE』12月号
- 『花時間』7月号
- 『東京育ちの京都案内』麻生圭子著 文芸春秋刊
- 『私のアンティーク』
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買取は古美術やかたへ!老舗骨董店ならではの6つの技
種田山頭火(たねだ さんとうか)
1882年(明治15)~1940年(昭和15)58才没。
山口県防府の大地主の家に生まれました。
父は村の助役を務めましたが、妾を持ち芸者遊びに夢中になるような父親でした。これに苦しんだ母は山頭火が10歳の時に、自宅の井戸に身を投げました。このことは、山頭火の心に深い傷を残しました。
現在の防府高校を首席で卒業した後、早稲田大学に入学。しかし22歳で神経症のために中退して帰郷します。
この頃、生家は相場取り引きに失敗して没落しておりました。立て直しの為に先祖代々の家屋敷を売り、彼は父と酒造業を開始します。
10代中頃から俳句に親しんでいた山頭火は、28歳から「山頭火」を名乗って、翻訳、評論など文芸活動を開始します。
31歳、俳句を本格的に学び始め、俳句誌に掲載されるようになりました。
34歳、実力が認められて俳句誌の選者の一人になります。しかし、この翌月に「種田酒造場」が倒産、父は家出し、兄弟は離散することになりました。山頭火も夜逃げ同然で妻子を連れ九州に渡ります。翌月、古書店(後に額縁店)を熊本市内に開業するがこれも失敗に終わります。
36歳の頃、弟が借金に耐え切れずに自殺。
37歳、行き詰った山頭火は職を求めて単身上京し、図書館で勤務、水墨画や古書画を好みました。
38歳、熊本にいる妻から離婚状が届き判を捺します。
40歳、神経症の為に図書館を退職。
1923年に関東大震災で焼け出され、熊本の元妻のもとで居候となります。
42歳、熊本市内で泥酔した山頭火は市電の前に立ちはだかって急停車させる事件を起こします。生活苦による自殺未遂と言われています。市電の中で転倒した乗客たちは怒って彼を取り囲みます。このとき現場に居合わせた新聞記者が彼を救い、曹洞宗 報恩寺の禅寺に放り込みました。43歳の時で、これが縁で山頭火は出家して耕畝と改名、郊外の味取観音堂の堂守となりました。生きる為に托鉢を続けます。個展 や 展覧会 等はしませんでした。
1926年、44歳の頃、漂泊の俳人尾崎放哉が41歳の若さで死去。
山頭火は3歳年下の放哉の作品世界に共感し、句作への思いが高まりました。法衣と笠をまとうと鉄鉢を持って熊本から西日本各地へと行脚に旅立ちます。この行乞の旅は7年間も続くことになり、その中で多くの歌が生まれていきました。
短冊 や 色紙、団扇等、小さな紙切れにも書かれた句があり、最初に向かったのは宮崎、大分県。
九州山地を進む山頭火は旅始めの興奮を詠んだ詩が「分け入っても分け入っても青い山」。
続いて中国地方を行乞し、46歳で四国八十八ヶ所を巡礼し、古筆も好んだ。小豆島では憧れの放哉の墓を訪れました。
1932年、50歳を迎えた山頭火は、肉体的に行乞の旅が困難となります。句友の援助を受けて山口県小郡の小さな草庵に入り「其中庵」と命名しました。出家からこれまでの作品をまとめた第一句集「鉢の子」を刊行。
九州、四国、中国地方を歩き続けた日々、山頭火の魂の遍歴がここに刻まれました。
自由律とは、5・7・5の俳句や5・7・5・7・7の短歌にこだわらない形の句のこと。
他の著名な作家では、荻原井泉水や河東碧梧桐、尾崎放哉などが有名です。
種田山頭火の主な出来事や作品の年表
1882年(明治15)山口県佐波郡西佐波令村(現在の防府市八王子)にて大地主・種田家の長男として生まれる。
1889年(明治22)佐波郡佐波村立松崎尋常高等小学校尋常科に入学。
1892年(明治25)10歳、母フサが、父竹治郎の芸者遊びなどを苦にして、自宅の井戸に投身自殺。母の自殺が放浪者としての山頭火を決定づける基因となる。成人後に山口へ戻るたびに「私の性情として憂鬱にならざるを得ない」と述べている。少年時代の楽しい思い出はこの出来事で完全に中断された。以後、正一は、祖母ツルの手によって育てられる。
1896年(明治29)14歳、私立周陽学舎(現在の山口県立防府高等学校)へ入学。学友らと文芸同人雑誌を発行。
1897年(明治30)15歳、地元の句会によく顔を出し、俳句を本格的に始めた頃だとみられている。
1899年(明治32)17歳、周陽学舎を首席で卒業し、その後、県立山口尋常中学(現在の山口県立山口高等学校)へ編入。
1901年(明治34)19歳、山口尋常中学を卒業し、その後、私立東京専門学校(早稲田大学の前身)の高等予科へ入学。
1902年(明治35)20歳、東京専門学校高等予科を卒業し、その後、早稲田大学大学部文学科に入学。
1904年(明治37)神経衰弱のため早稲田大学を退学し、しばらく東京に留まるが病状が回復せず、実家へ帰郷。
1906年(明治39)24歳、父竹治郎が現在の防府市あたりに種田酒造場を開業し、一家で移り住む。
1908年(明治41)26歳、酒造に失敗し、家屋敷を全て売却している。
1911年(明治44)29歳、防府の郷土文芸誌「青年」が創刊になる。その雑誌にて「田螺公」という旧号で定形俳句を、「山頭火」の 号 で 翻訳家 ではありませんが、外国文学の翻訳などを発表。
1913年(大正 2)31歳、荻原井泉水が主宰する「層雲」3月号にて、初めて投稿句が掲載される。同誌5月号にて選ばれた2句にも「山頭火」という 号 を使い始める。また、編集兼発行人として個人で文芸誌「郷土」を創刊。
1914年(大正 3)「層雲」にて自由律が始まる。
1916年(大正 5)34歳、「層雲」にて頭角を現し、俳句選者の一人となっている。この頃、種田酒造場の経営が危機に陥り、種田家は破産に追い込まれる。父竹治郎は消息不明になり、山頭火は友人を頼って妻子と熊本へ移ることになる。その後、熊本市にて古書画店「雅楽多書房」を開業。しかし、経営は軌道に乗らず、間もなく額縁店「雅楽多」として再出発。その経営も次第に妻サキノに任せがちになっていく。熊本での生活では常に空虚感や欠落感が付き纏っていた。更にこの頃に起こった弟二郎の自殺が山頭火をより一層酒に向かわせることになる。
1919年(大正 8)37歳、妻子を熊本に残したまま単身上京。
1920年(大正 9)妻サキノと戸籍上離婚。
1923年(大正12)41歳、関東大震災に遭い熊本の元妻のもとへ逃げ帰った。熊本市内で泥酔し、路面電車を止める事件を起こす。顔見知りの記者に助けられ、市内の報恩禅寺(千体佛)住職の望月義庵に預けられ寺男となった。
1924年(大正14)42歳、得度し 高僧 より「耕畝」と改名、号 や 別号 は無く、味取観音堂の堂守となる。
1925年(大正15)43歳、寺を出て、雲水姿で西日本を中心に旅し句作を行い、旅先から「層雲」に投稿を続けた。
1932年(昭和 7)50歳、郷里山口の小郡町(現在の山口市小郡)に「其中庵」を結庵した。この頃、体調不良から来る精神不安定から自殺未遂を起こす。
1936年(昭和11)54歳、雲水姿で山梨県小淵沢から長野県佐久までを歩き、数々の 逸品 を残す。その後も東北地方などを旅した。
1938年(昭和13)56歳、山口市湯田温泉街に「風来居」を結庵。
1939年(昭和14)愛媛県松山市に移住し「一草庵」を結庵。
1940年(昭和15)脳溢血のため一草庵で生涯を閉じた。享年58。
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