澤庵宗彭 買取
澤庵宗彭は独自の画境を築き、江戸時代初期に活躍した当時の代表的禅僧で、臨済宗の高僧です。
名利を求めない枯淡の禅風から生まれた、澤庵宗彭の禅語は、茶の湯でも人気で高価買取させて頂きます。
日本一、歴史ある
京都祇園骨董街にあります。
京都は千年も続いた都です。
京都祇園骨董街の中でも当店は、歴史的保全地区に指定されています。
約80軒の古美術骨董商が軒を連ねる、
日本でもトップの祇園骨董街にある老舗の骨董店です。
京都祇園で小売販売している
老舗骨董店だからこそ高価買取出来るのです。
世界各国から1日100名近くのお客様がご来店頂いております。
店頭には買取商品を常時2000点以上展示販売しており、
愛好家やコレクターの方が品物の入荷をお待ちです。
買取依頼のお客様に納得して頂くことを
第一と考えております。
ホームページや店頭にて販売する価格を提示して、買取りさせて頂いております。
是非、ご来店頂くか、ホームページをご覧下さい。
京都祇園で昭和56年に開業、長年の信頼と実績があります。
澤庵宗彭の作品ー査定・買取ポイントのアドバイス
澤庵宗彭(たくあん そうほう)
沢庵宗彭は、江戸時代初期に活躍した 臨済宗 大徳寺 派の 高僧 です。
1573年(天正元)兵庫県北部の但馬国出石の秋庭能登守綱典の次男として生まれる。
1582年(天正10)10歳で出石の唱念寺に出家、14歳で出石の宗鏡寺で得度、その後、大徳寺の董甫紹仲やその師の春屋宗園にも 師事、法名を宗彭と改名しました。
1604年(慶長 9)32歳の時に「沢庵」の 別号 を授かりました。
1609年(慶長14)大徳寺 153世 管主 となるも、3日で辞し無欲清廉の人となりました。上山に流されるまでの在京中は、小堀遠州に茶を学び、烏丸光広や松花堂昭乗ら、公家や京洛文化人達と親交を深めるなど、文化人禅僧として暮らしました。
1627年(寛永 4)紫衣事件で流罪となりましたが、その後江戸に移り、家光の依頼で、江戸城内にて説禅を行なうようになりました。しかしながら、自身は名利を求めない枯淡の禅風を守り、一禅僧の姿勢を貫き通しました。
大徳寺153世住職、諡は普光国師、号 は瞑之・東海・暮翁など。印名は「宗彭」 「明暗雙々」 「泉鼓」 「澤」 「澤庵」 など。
代表作に「夢」「臺雲二大字」。著作に「沢庵和尚法語」「不動智神妙録」などがあります。
1646年(正保 2)73歳江戸で逝去、円相に賛を作る。「夢」の一字を残し、死去しました。
現代では高僧の書画として数多くの 逸品 や 名品 を残しております。
澤庵宗彭の作品 画風と買取価格のワンポイント
澤庵宗彭の独自の画境を築き、現在でも人気の作家で高価買取させて頂きます。
掛軸、一行書、墨蹟作品は高価買取対象です。
出品作品や来歴がある名品、また晩年の全盛期の作品は特別高価買取させて頂きます。
墨蹟作家の中でも人気が低迷していない作家です。
多くの茶匠が沢庵宗彭の影響を受けており、特に 遠州流 ではその先導者です。
当時の代表的禅僧として知られ、受け答えも当意即妙で、禅の教えを身近なものに例えて 教授 しました。
書画、漢詩、和歌に通じ、その禅語は 茶掛け に多く使われ、力強く、気品高い多くの 墨蹟 を残しています。
澤庵宗彭の作品をお持ちのお客様、お気軽にご相談ください。
掛軸の場合は、購入された時から入っている箱(共箱)は大切な箱で、共箱には澤庵宗彭の自筆のサインと 落款 が押されています。
共箱は、保証書も兼ねており、有る・無しで、買取価格は大きく変動します。
シミや汚れがある場合でも、現状のままお持ちください。
鑑定書 の有無に関わらず、まず当店で無料の 真贋 の判断やアドバイスをさせて頂きますので、お電話でご相談ください。
一般的に絵画の 鑑定 は、美術俱楽部やそれぞれの指定された 鑑定機関 で行われており、その場合、真贋を問うだけで、約3万円~5万円かかり、有料です。
【所定鑑定人・鑑定機関】
澤庵宗彭の場合、鑑定機関はありません。
当店では高額な作品も扱っております、一例ですがご覧ください。
お買取りさせて頂いた作品は価格を表示してホームページや店頭で販売しています。
澤庵宗彭をはじめ買取させていただいた作家の作品も数多くあります、是非ご覧ください。
当店には澤庵宗彭の愛好家やコレクターのお客様もおられ、新しい作品の入荷をお待ちです。
澤庵宗彭の作品をお持ちのお客様は、お気軽にご相談頂ければ、適切なアドバイスをさせて頂きますので、是非お問い合わせ下さい。
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澤庵宗彭 略歴
573年(天正元)~1646年(正保2)73才没。
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての臨済宗の僧。
品川東海寺の開山、南宗寺中興の祖と言われています。
但馬国出石(現兵庫県豊岡市)の生まれです。
父が仕えていた出石城主山名祐豊が、織田信長の侵攻に遭い、織田家家臣の羽柴秀吉により攻められて落城。
その時に父は浪人となりますが、父が浪人となったことから、10歳の頃、地元の唱念寺にて出家。
それからおよそ4年後に出石の宗鏡寺に入り、希先西堂に 師事 し「秀樹」と改名しました。
その後、希先西堂が亡くなると出石城主の前野長康が大徳寺から宗鏡寺の 高僧 の薫甫宗忠を招きます。
これにより薫甫宗忠に 師事 する事になりました。
薫甫宗忠が大徳寺住持となり上京すると澤庵もこれに従い大徳寺に入ります。
薫甫宗忠と共に佐和山城に入り、関ヶ原の戦 いで佐和山城が攻め落とされると、薫甫宗忠と共に脱出に成功。
のちに斬首された石田三成の遺体を引き取り、三玄院で手厚く弔ったといわれています。
その後、文西洞門に師事するが文西が亡くなると一凍紹滴に 入門 し、32歳の頃に「沢庵」の法号を得ます。
1594年、董甫が大徳寺138世住持に出世すると連れて上京。
董甫の師でもある春屋宗園にも 弟子 入り。
このときに法名を宗彭と改名しました。
後に大徳寺首座の高僧となり、2年後に 大徳寺 第154世住持になりますが、出世に興味がなく大徳寺を去ります。
江戸幕府が成立すると寺院法度などにより寺社への締め付けが厳しくなりました。
幕府は大徳寺と妙心寺に対して寺院法度を厳しくする政令を発足しました。
寺院と朝廷の関係弱化を狙った政策で、これまで歴代の住持に天皇から勅許されていた紫衣を剥奪。
沢庵は玉室、江月らと共に大徳寺の僧をまとめ反対運動を行いました。
幕府はこれを幕命に従わないとして出羽国山上に流罪となりました。
その後、将軍徳川秀忠が亡くなると天海、柳生宗矩などの尽力で大赦令が出されます。
一時江戸に上がり神田広徳寺に身を預けたのち大徳寺に戻ります。
徳川家光が上洛すると謁見した後に、家光のそばに仕えるようになります。
江戸に萬松山東海寺を開き、73歳の頃に夢という一字を書に残し、江戸で亡くなりました。
弟子たちに「墓碑を建ててはならぬ」と残しましたが、東京都品川区にある萬松山東海寺に沢庵の墓があります。
また澤庵は有名な小説「宮本武蔵」の中で武蔵と接点があったとされています。
記録はありませんが武蔵の師匠として描かれている事でも知られています。
また書画、詩文、茶の湯 なども嗜みました。
澤庵宗彭の主な出来事や作品の年表
1573年(天正元)生まれる。
1582年(天正10)10歳、昌念寺に入り出家する。
1586年(天正14)14歳、宗鏡寺塔頭勝福寺に入る。
1594年(文禄 3)22歳、董甫に連れられて 大徳寺 三玄院に入る。
1596年(慶長元)24歳、大徳寺の諸老に参じる。
1600年(慶長 5)28歳、大徳寺三玄院に帰る。
1601年(慶長 6)29歳、堺に移り、詩文を文西に学ぶ。
1602年(慶長 7)30歳、和歌を細川幽斎に 入門 し、師事 する。
1603年(慶長 8)31歳、一凍に参じた。
1604年(慶長 9)32歳、一凍が印可し、初めて沢庵と 号 する。
1609年(慶長14)37歳、大徳寺に出世する。
1612年(慶長17)40歳、南宗寺にいて詠歌音義を作る。
1613年(慶長18)41歳、大灯国師年譜を編する。小出吉政が亡くなる。
1614年(慶長19)42歳、八瀬の橋をかける。
1615年(元和元)43歳、南宗寺が兵火にかかる。大徳寺法度が配布される。
1616年(元和 2)44歳、宗鏡寺が再興される。
1617年(元和 3)45歳、南宗寺の再興に着手する。
1620年(元和 6)48歳、投淵軒を建てて住む。
1621年(元和 7)49歳、理気差別論を著する。
1624年(寛永元)52歳、高松宮が出石に来られる。
1626年(寛永 3)54歳、法度の励行を達し、大徳寺の出世を禁ずる。
1628年(寛永 5)56歳、祥雲寺を開く。幕府は大徳寺を責め、弁明書を書く。
1629年(寛永 6)57歳、幕府は沢庵を召し、沢庵は上ノ山に流される。東国紀行、碧巌九十偈を作る。
1630年(寛永 7)58歳、槍術の奥儀書を作り、古書画や古筆で禅の 画風 や 作風 の 逸品 多く残した。
1632年(寛永 9)60歳、大赦令が出た。江戸に帰り駒込に住む。
1633年(寛永10)61歳、鎌倉遊覧記を作る。家光が柳生を通して質問する。
1634年(寛永11)62歳、木曽路紀行を書き上洛する。二条城で家光に会い、次いで院参し但馬に帰る。
1635年(寛永12)63歳、出石から江戸に帰る。
1636年(寛永13)64歳、家光がしきりに召した。上洛し東海道の記を作る。但馬に帰る。
1638年(寛永15)66歳、東海寺が建立されることにる。上洛し上皇に原人論を御進講申し上げ、国師号は辞退する。柳生に芳徳寺を開く。
1639年(寛永16)67歳、東海寺が落成し、新寺に移る。
1643年(寛永20)71歳、祠堂記、万年石の記を作る。
1644年(正保元)72歳、上京し参院して但馬に帰る。
1646年(正保 2)73歳、茶席の書画に使われる円相に賛を作る。「夢」の一字を残し、死去した。
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