熊谷守一 買取
古美術やかたは、熊谷守一の作品を後世に伝えたいとの思いで、半世紀営業してきました。
熊谷守一は「画壇の仙人」と称され、単純な形態と明瞭な色彩を特徴とする画風が高く評価されています。
板に描かれた晩年の油絵は人気があり、花や猫の図柄は特別高価に買取させて頂きます。
【老舗骨董店の一味違う営業実績】
熊谷守一 買取価格のワンポイント
販売から買取の当店ならではの技
作品買取で他店との違いが一目瞭然!
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安心して熊谷守一買取依頼出来る6つの技
熊谷守一作品の種類や説明と鑑定機関
日本一、歴史ある
京都祇園骨董街にあります。
京都は千年も続いた都です。
京都祇園骨董街の中でも当店は、歴史的保全地区に指定されています。
約80軒の古美術骨董商が軒を連ねる、
日本でもトップの祇園骨董街にある老舗の骨董店です。
京都祇園で小売販売している
老舗骨董店だからこそ高価買取出来るのです。
世界各国から1日100名近くのお客様がご来店頂いております。
店頭には買取商品を常時2000点以上展示販売しており、
愛好家やコレクターの方が品物の入荷をお待ちです。
買取依頼のお客様に納得して頂くことを
第一と考えております。
ホームページや店頭にて販売する価格を提示して、買取りさせて頂いております。
是非、ご来店頂くか、ホームページをご覧下さい。
京都祇園で昭和56年に開業、長年の信頼と実績があります。
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熊谷守一の作品ー査定・買取ポイントのアドバイス
熊谷守一(くまがい もりかず)・特徴と技法
1880年(明治13)~1977年(昭和52)97才没。
熊谷守一は、その風貌と人柄から「画壇の仙人」「超俗の画家」と呼ばれ、70年を超える画業を全うしました。
岐阜県恵那郡付知村(現在の中津川市付知町)の初代市長熊谷孫六郎の三男に生まれる。
地元で生糸商を営む名士の家で、裕福ながら複雑な家庭に育ち、のち家の没落にあう。
子供の頃から絵を描くことが好きで、親の反対を押し切って画業の道に進む。中学3年の時に上京、翌年には共立美術学校に入り、日本画 を研修する。明治33年に 東京美術学校 西洋画 科に入学し、黒田清輝、藤島武二らに 師事 する。同級生には、青木繁や和田三造、山下新太郎ら日本洋画界の著名な作家がいる。在学中、父が急死し実家が破産、以降、生活に困窮しながらも、芸術活動を続けた。明治37年東京美術学校を首席で卒業、初期の頃は「暗闇でのものの見え方」を独自で研究する。29歳の時に、真っ暗な闇にたたずみ蝋燭を手して微笑むような表情の自画像「蝋燭」を描き、明治42年第3回 文展 に出品し、褒状を受賞。翌年母を亡くし、郷里の木曾山中で約5年間、画業を離れ、樵夫や鍛冶工などの生活を送る。友人のすすめで再度上京し、大正4年からは 二科展 を中心に出品し続け、二科会会員となる。40代になると、美術学校時代に学んだ裸体画に再び傾倒し、躍動感のある筆致で、絵の具を塗り重ねながらも色の使い分けによって光と影の存在を感じさせた。この頃、人物画 にも風景画にも、守一の特徴である「赤い輪郭線」が登場する。山の稜線は太く、はっきりとした線で縁取られ、輪郭線の中は陰影の無い、単一色で塗られている。昭和に入り徐々に 画風 を確立する中、家族との死別を相次いで経験。昭和13年頃から日本画を描き始め、第4回奈良美術家連盟作品展に水墨画30点を出品。昭和22年に二紀会創立に参加したが、4年後退会し、清光会同人となる。昭和29年に清光会が解散した後は、無所属作家として世俗から離れ、自由な生活と制作を楽しむ。晩年は、明るい色調と赤い輪郭線の特徴的な 作風 が完成し、70代でようやく世に知られることとなり、画家 として成功を収めた。しかし、76歳の時に身体を壊してからは、風景を描きに遠くへ行くことが出来ず、自宅の庭が守一の世界の全てになり、身近な植物や昆虫、一緒に暮らしていた猫を好んで描いた。自然の形象を簡潔な形体に 抽象 化した素朴で格調ある独自の様式を築き上げ、昭和39年にはパリで 個展 も開催されて好評を得た。昭和42年に 文化勲章 受章が内定するが、「これ以上人が来ては困る」と辞退し、昭和47年の 勲三等 叙勲も辞退する。欲の無い生き方とその風貌などから「画壇 の仙人」と呼ばれ、生き様、作品、書などが多くの文化人を魅了する。
熊谷守一は晩年まで、同じ図柄を繰り返し描いており、挑戦を続けていました。まず スケッチ を描き、それをトレーシングペーパーに写し、そのトレーシングペーパーと、油彩用のキャンバスとの間にカーボン紙を挟み、線を転写するのが代表的な手順です。
随筆集に「へたも絵のうち」、代表作には「陽の死んだ日」などがあります。
熊谷守一の作品 画風と買取価格のワンポイント
熊谷守一は、花や虫、猫、風景などを極限まで単純化した形態にして描いており、高価に買取させて頂きます。明るい色調と赤い輪郭線の特徴的な作風が人気で、晩年の肉筆油絵は買取価格が数百万円以上になることもあります。晩年の油絵作品は板に描かれているものが殆どで、表面は引っかいたような独特の質感になり、「クマガイモリカズ」とカタカナでサインが描かれております。
また、昭和13年頃から描き始めた水墨画も人気があり、高価買取対象です。
熊谷守一は、「暗闇でのものの見え方」を独自で研究し、初期の作品には、暗欝な色調のものが多く見られます。40代になると、裸体画に傾倒し、躍動感のある筆致で、絵の具を塗り重ねながらも色の使い分けによって光と影の存在を感じさせました。この頃から、人物画 にも 風景画 にも、守一の特徴である「赤い輪郭線」が登場します。
山の稜線は太く、はっきりとした線で縁取られ、輪郭線の中は陰影の無い、単一色で塗られています。
昭和に入り、家族との死別を相次いで経験すると、昭和13年頃から水墨画を描き始め、その後は書も書いています。
晩年は身体を壊し、自宅の庭で日々、地に寝転がり空を見つめ、その中で見える動植物の形態や生態に関心を持ちました。
特に 動物画 や虫、花、猫などの図を好み、明るい色調で自然の形象を簡潔な形に 抽象 化する 画風 を確立しました。
晩年の熊谷の絵の世界には、その小さな世界に息づく様々な草花や虫、そして小さな動物たちなど、身近な命の輝きを見つめ、命を見つめる優しい眼差しに溢れています。
絵画は簡単に描かれた作品から時間をかけた力作、また大きさや 図柄 により買取価格は大きく変わります。
熊谷守一の場合、若書き の作品よりも、晩年 の明るい色調の 肉筆 油絵や 水墨画 が人気で、高価買取対象です。
略歴
明治13年 岐阜県恵那郡付知村に生まれる。
明治33年 東京美術学校 西洋画 科に入学し、黒田清輝らに 師事 する。
明治42年 第3回文部省美術 展覧会 に「蝋燭」を出品、褒状を受賞する。
明治43年 実母の死を機に故郷へ帰り、樵夫や鍛冶工などの生活を送る。
大正 5年 再度上京し第3回二科会展に「赤城の雪」などを出品、二科会会員に推挙される。
大正11年 大江為次郎の次女、秀子と結婚する。
大正12年 長男の黄生まれる。(その後、次男陽、長女萬、次女榧、三女茜が生まれる)
昭和 3年 次男陽死亡、「陽の死んだ日」を描く。
昭和 7年 三女茜死亡。
昭和13年 この頃から水墨画を描き始め、晩年 は書も書く。
昭和15年 この頃から輪郭と平面による独特なスタイルの 油絵 を描く。
昭和22年 長女萬死亡、「ヤキバノカエリ」を描く。
昭和39年 パリ、ダヴィト・エ・ガルニエ画廊で 個展 が開催される。
昭和42年 文化勲章 を辞退する。
昭和47年 勲三等 叙勲を辞退する。
昭和51年 熊谷守一記念館が開館。
昭和52年 8月1日肺炎のため逝去、享年97歳。
熊谷守一の作品をお持ちのお客様、お気軽にご相談ください。
殆ど有りませんが、熊谷守一の 掛軸 や 屏風 の場合、購入された時から入っている箱(共箱)は大切な箱です。
共箱には熊谷守一の自筆のサインと 落款 が押されています。共箱が有る・無しで、買取価格は大きく変動します。
額装 の場合は、確実な判定材料にはなりませんが、買われた 画廊 のシールも大切な物となる場合があります。
一般的には、キャンバス の裏側に題名と作家直筆のサインが書かれており、大切な真贋の 鑑定 材料となります。
鑑定書の有無に関わらず、まず当店で無料の真贋の判断やアドバイスをさせて頂きますので、お電話でご相談ください。
下記のような汚れや剥落があっても、現状のままお持ちください。
油彩の場合、画面上の汚れやヒビ、割れなどがないかを見させていただき、また制作年代や 画風 によっても買取価格に差が出てきます。状態が悪い場合は修復が必要となる場合もありますが、当店で修復しますので、現状のままお持ちください。
熊谷守一の鑑定は、下記の鑑定機関で行われており、真贋を問うだけで約3万円~5万円かかります。
【所定鑑定人・鑑定機関】
油絵
東京美術倶楽部鑑定委員会
水墨画と書
熊谷守一水墨淡彩画鑑定登録会
お買取りさせて頂いた作品は価格を表示してホームページや店頭で販売しています。
百聞は一見に如かず、是非ご覧ください。
お譲り頂いたお客様に納得頂き、信頼と安心をお届けします。
熊谷守一をはじめ買取させていただいた作家の作品も数多くあります、是非ご覧ください。
当店には熊谷守一の愛好家やコレクターのお客様もおられ、新しい作品の入荷をお待ちです。
熊谷守一の作品をお持ちのお客様は、お気軽にご相談頂ければ、適切なアドバイスをさせて頂きますので、是非お問い合わせ下さい。
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買取は古美術やかたへ!老舗骨董店ならではの6つの技
熊谷守一 略歴
明治13年4月2日岐阜県の小村に熊谷孫六郎(初代岐阜市市長・衆議院議員)の三男として生まれた。富裕層の出身であるが、極度の芸術家気質で、貧乏生活を送った。
明治33年 東京美術学校 西洋画 科に入学し、黒田清輝、藤島武二らに師事、同級生に青木繁、山下新太郎らがいる。同級生だった青木繁も、守一の制作態度や作品に一目を置いていた。
初期の作品は、蝋燭や裸電球、また月明かりで輝く対象を好んで題材にした。
明治42年、闇の中から世界を見つめる若き 画家 の不安を描いた自画像「蝋燭」が文展で褒状を受賞。在学中に父を亡くした為、卒業後、政府の樺太調査隊に参加して給金を得たが、明治43年に母危篤の知らせを受け取ると故郷の付知に戻り、しばらく画業を中断する。
郷里の木曾山中で5年間にわたり樵夫の生活を送るなど特異な経歴をもつ。
友人のすすめで再び上京、大正中期から昭和前期にかけて二科会に所属し、その間、画家の有島生馬、音楽家の信時潔、颯田琴次、山田耕作らと親交した。
大正11年、42歳で結婚し、5人の子供に恵まれたが絵が描けず貧乏が続いた。子煩悩で大変に子供をかわいがった。守一は「妻からは何べんも『絵を描いてください』と言われた。(中略)周りの人からもいろいろ責め立てられた」と後に述べている。
当時は日々の食事にも事欠く有様で、次男の陽が肺炎に罹った時も医者に診せることができず死なせてしまった。
代表作の「陽の死んだ日」は、4歳で死んだ息子・陽の死に顔を描いたものである。
守一は描いた後で、これでは人間ではない、鬼だと気付き愕然としたという。
60歳近くになってから始めたのが、書や水墨画で、線と余白だけで喜びも悲しみも表現できる、その可能性に惹かれた。
戦後すぐの67歳の時、長女の萬を21歳の若さで亡くす。「ヤキバノカエリ」は、結核を患って死んだ長女・萬が自宅の布団の上で息絶えた姿を荒々しい筆遣いで描き、野辺の送りの帰りの、お骨を抱いて焼き場から戻る自分と家族を描いた作品である。
「陽の死んだ日」とは全く違ったスタイルで描かれ、人物の顔には眼も鼻も口も無い。
仏壇に当時は高価であったタマゴをお供えした様子を描いた「仏前」なども絵に残している。
この後、東京豊島区の自宅から一歩も出なくなった。俗界から離れた自由な生活と制作を楽しみ、晩年は「画壇 の仙人」などとも称された。わずか15坪の小さな庭が彼の世界の全てになり、夜は アトリエ で数時間絵を描き、昼間はもっぱら自宅の庭で過ごした。
守一にとっての庭は小宇宙であり、日々、地に寝転がり空を見つめ、その中で見える動植物の形態や生態に関心を持った。
晩年描かれた多くの 油絵 作品のモチーフは、ほぼすべてが自宅の庭にあったものである。
その小さな世界に息づく様々な草花や虫、そして小さな動物たち、守一は身近な命の輝きを見つめた。
晩年 の熊谷守一の絵の世界は、こうして誕生した。そこには命を見つめる優しい眼差しが溢れている。
一本の線と面に宿る大きな力、守一はその独特な 画風 を「下手も絵のうち」と表現している。
「下手といえばね、上手は先が見えてしまいますわ。行き先もちゃんとわかってますわね。
下手はどうなるかわからないスケールが大きいですわね。上手な人よりはスケールが大きい」と語っている。
昭和39年には、パリのタヴィト・エ・ガルニエ画廊で 個展 が開催された。
作風も、初期の暗欝な色調から、フォーヴィスム的な表現を経て、晩年は、自然の形象を簡潔な形体に 抽象 化した素朴で格調ある独自の様式をつくりだした。「守一様式」とされる下絵デッサン(線)が塗り残された作品で、山々や海・風景が描かれたものについては、若い頃の スケッチ ブックを広げて油絵にしていた。同じ下絵で描かれた作品も多く、構図 の違いや色使いを変えたりと熊谷自身が楽しみながら描かれたであろう作品が展開される。線と面で区切られた小さな4号サイズの板には 作品を見るものに「昆虫の目」を持たせてくれる。面と線だけで構成された「赤蟻」(1971年)など、その独特な画風は現在高い評価を得ている。
昭和42年には 文化勲章 を辞退し、昭和47年には 勲三等 叙勲も拒否して話題となった。
昭和52年肺炎の為、自宅で死去、享年97歳。画壇 の最長老で、日本の美術史においてフォービズムの 画家 と位置付けられている。
写実 画から出発し、表現主義的な 画風 を挟み、やがて 洋画 の世界で「守一様式」とも言われる独特な様式を確立した。
その様式は、極端なまでに単純化された形、それらを囲む輪郭線、平面的な画面の構成をもった抽象度の高い具象画スタイルである。
自然や裸婦、身近な小動物や花など生命のあるものを描いた画家で、洋画だけでなく 日本画 も好んで描き、書・墨絵も多数残した。
墨の濃淡を楽しみながら自由に描かれた 水墨画、生命あるものを絵でなく「書」で表現したとも評された書、また、頼まれれば皿に絵付けなどもした。摺師との仕事を楽しんで制作した木版画も残されている。
代表作は「陽の死んだ日」(1928)、「有島生馬像」(1935)などがある。
熊谷守一の主な出来事や作品の年表
明治13年(1880)岐阜県恵那郡に三男として生まれる。父は岐阜市で生糸商を営み、同市の初代市長となった熊谷孫六郎。
明治16年(1883)生母と死別し、岐阜市で幼少年時代を送る。
明治30年(1897)岐阜中学校3年生の時に上京、正則中学校に転校、その後慶應義塾にも一学期間在学する。
この頃、画家 になることを決意する。
明治31年(1898)東京・本郷寿川町にあった共立美術学校に入り、日本画 を研修する。
明治33年(1900)東京美術学校 西洋画 科選科入学、黒田清輝、藤島武二らに 師事 する。
同級生に、青木繁、児島虎次郎、山下新太郎と和田三造、高木巌らがいた。
明治37年(1904)東京美術学校を首席で卒業。卒業制作「自画像」。
明治38年(1905)農商務省の岸本謙吉博士を首班とする樺太調査隊に参加し、2年間漁場調査のため北海の島々をまわり、
風景、地形、海産物などを記録し写生する(この時の作品は関東大震災のために消失)。
明治40年(1907)樺太から帰り、日暮里、上野桜木町、駒込千駄木町の下宿を転々とする。
明治41年(1908)第2回文展に「肖像」を出品、入選。
明治42年(1909)第3回文展に「蝋燭」を出品、褒状を受賞。
明治43年(1910)第13回白馬会展に「轢死」を出品。実母の死去を機に郷里へ帰り、樵夫や鍛冶工などの生活を送る。
大正 4 年(1915)友人斎藤豊作らのすすめで再び上京、第2回 二科展 に「女」を出品。
大正 5 年(1916)3回二科展に「習作」「赤城の雪」を出品、会員に推挙される。
大正 6 年(1917)4回二科展に「風」出品。
大正 7 年(1918)5回二科展に「某婦人像」出品。
大正 8 年(1919)6回二科展に「裸体」出品。
大正 9 年(1920)7回二科展に「人物」出品。
大正11年(1922)9回二科展に「草人」「向日葵」出品。和歌山県日高郡南部町の素封家大江為次郎の次女秀子と結婚する。
大正12年(1923)7月、長男黄生まれる(その後、次男陽、長女萬、次女榧、三女茜が生まれる)。10回二科展に「夏」出品。
大正14年(1925)12回二科展に「婦人像」(パステル)「松」出品。
大正15年(1926)13回二科展に「人物」「ハルシャ菊に百合」出品。
昭和 2 年(1927)14回二科展に「人物(一)」「人物(二)」「トウモロコシ」出品。
昭和 3 年(1928)次男陽死亡。15回二科展に「陽の死んだ日」「裸」「向日葵」出品。
昭和 4 年(1929)16回二科展に「裸(一)」「裸(二)」「百合」「婦人像」出品。二科技塾開設に参加し、後進の指導に当たる。
昭和 5 年(1930)2回聖徳太子奉讃展に「冬」、17回二科展に「坐った裸」「横の裸」出品。
昭和 6 年(1931)18回二科展に「肖像(有島生馬像)」「女の顔」出品。
昭和 7 年(1932)19回二科展に「顔」「子供」。三女茜死亡。東京、豊島区千早町に自宅を新築し、晩年まで過ごす。
昭和 8 年 (1933)20回二科展に「裸」出品。
昭和 9 年 (1934)21回二科展に「裸」出品。
昭和10年(1935)22回二科展に「富士山」「雨」出品。
昭和11年(1936)23回二科展に「最上川上流」「山形風景」「牡丹」「雨乞山」「長良川」出品。
昭和12年(1937)24回二科展に「裸(一)」「裸(二)」「牡丹」出品。
昭和13年(1938)25回二科展に「仔馬」「裸」「杉林」「顔」出品。
この頃から日本画を描き始め、4回奈良美術家連盟作品展に水墨画30点を出品。
昭和14年(1939)26回二科展に「岩殿山」「麦畑」「桑畑」出品。
昭和15年(1940)27回二科展に「湯檜會の朝」「ハルシャ菊」、同時に生誕60年記念陳列とし油彩画41点が特別陳列される。
昭和16年(1941)28回二科展に「桃」出品。
昭和17年(1942)長谷川仁編「熊谷守一画集」刊行される。29回二科展に「山躑躅」「渓流」出品。
昭和22年(1947)二紀会創立に参加。1回展に「海」「農家」出品。長女萬死亡。
昭和23年(1948)2回二紀展に「佛前」出品。
昭和24年(1949)3回二紀展に「縁側」出品。
昭和25年(1950)4回二紀展に「萬の像」出品。
昭和26年(1951)16回清光会展「牡丹」「猫」、5回二紀展記念室に「裸」出品。
二紀会を退会し、無所属作家となる。後藤真太郎の主宰する清光会同人となる。
昭和27年(1952)1回日本国際美術展に「野天風呂」、17回清光会展に「椿」「老鶏」出品。
昭和28年(1953)2回日本国際美術展に「山中湖畔平野村」、18回清光会展に「砂丘」「冬の海」出品。
昭和29年(1954)1回日本現代美術展に「土饅頭」、19回清光会展に「牛」「桃」出品。
後藤真太郎の死去により清光会は解散し、以後いっさいの団体展から離れる。
昭和31年(1956)2回日本現代美術展に「ヤキバノカエリ」出品。
昭和34年(1959)5回日本国際美術展に「はだか立像」出品。
昭和36年(1961)熊谷守一画集刊行会「熊谷守一」刊行。
昭和37年(1962)洋画商展に「ねこ」、以後毎年、洋画 商展に出品。1回国際形象展に「はつなり」「斑猫」出品、以後毎年出品。
昭和38年(1963)洋画商展に「薔薇」、2回国際形象展に「少女」出品。
昭和39年(1964)洋画商展に「鶏頭」、3回国際形象展に「鬼百合」出品。パリ、ダヴィト・エ・ガルニエ画廊で 個展 が開催される。
昭和40年(1965)国際形象展に「夏水仙」出品。
昭和41年(1966)洋画商展に「ばら」出品。
昭和42年(1967)洋画商展に「裸婦」出品。文化勲章 受章者に内定したが、「これ以上人が来るのは困る」と言って辞退する。
昭和43年(1968)洋画商展に「赤城の雪」出品。
昭和44年(1969)洋画商展に「月」出品。
昭和45年(1970)洋画商展に「蛇目蝶」出品。
昭和46年(1971)洋画商展に「梨」、国際形象展に「昼顔」出品。著書「へたも絵のうち」刊行。
昭和47年(1972)勲三等 叙勲を辞退する。洋画 商展に「ざくろ」、国際形象展に「西日」出品。
昭和48年(1973)洋画商展に「朝日」出品。「熊谷守一の書」刊行。
昭和50年(1975)洋画商展に「牡丹」、洋画商展に「のりうつぎ」出品。
昭和51年(1976)岐阜県に熊谷守一記念館が開館。著書「蒼蠅」刊行。洋画商展に「あげ羽蝶」出品。
昭和52年(1977)8月1日肺炎の為、東京都豊島区の自宅で逝去、享年97歳。
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