曽我蕭白 買取

曽我蕭白は、江戸時代から「狂人」と評され、破天荒なエピソードもあり、驚きの画風で、傲岸不遜、無頼の絵師と言われた。
日本で不人気の明治時代に米国の人々に評価され、ボストン美術館には五十数点の優れた曽我蕭白コレクションが所蔵。

日本一、歴史ある京都祇園骨董街にあります。

京都は千年も続いた都です。
京都祇園骨董街の中でも当店は、歴史的保全地区に指定されています。
約80軒の古美術骨董商が軒を連ねる、
日本でもトップの祇園骨董街にある老舗の骨董店です。

京都祇園で小売販売している老舗骨董店だからこそ高価買取出来るのです。

世界各国から1日100名近くのお客様がご来店頂いております。
店頭には買取商品を常時2000点以上展示販売しており、愛好家やコレクターの方が品物の入荷をお待ちです。

買取依頼のお客様に納得して頂くことを第一と考えております。

ホームページや店頭にて販売する価格を提示して、買取りさせて頂いております。
是非、ご来店頂くか、ホームページをご覧下さい。
京都祇園で昭和56年に開業、長年の信頼と実績があります。

京都美術倶楽部大阪美術倶楽部鴨東古美術会京都古書組合東京古書組合に加盟しております。

曽我蕭白の作品ー査定・買取ポイントのアドバイス

曽我蕭白(そが しょうはく)・特徴と技法

曽我蕭白買取

虎溪三笑図

1730年(享保15)~ 1781年(天明元)51才没。江戸中期から後期の 画家

京都の紺屋だった商家丹波屋で生まれと思われる。姓は三浦、名は暉雄、暉一、暉鷹とも称する。
字は師龍、通称を左近二郎、別号 に蛇足軒・鬼神斎・如鬼等。
京都市上京区の興聖寺には蕭白とその一族の墓もある。1743年に父・吉右衛門が亡くなり1746年母ヨツが亡くなり、丹波屋も潰れ、伊勢の久居の米屋で奉公していた蕭白は孤独のうちに生きていったと思われる。
三重県の伊勢や兵庫県の播州にも、作品や逸話を多く残す 絵師で 、伊勢も播州も木綿の産地であり、実家の丹波屋が紺屋で(現在の染物屋)であれば、そのつながりを頼ったのではないかと推測されている。
円山応挙、伊藤若冲、池大雅と妻の玉蘭、与謝蕪村、呉春等、同世代の 画家です。
室町時代の画家曾我蛇足の画系に属すると自称し、落款 には「蛇足十世」などと記し、室町時代の水墨画を慕う。曾我直庵・二直庵父子の 画風 の奇矯さを誇張した個性の強い 画風 を特徴とする。
荒々しい筆致と極彩色の作品で独自の画風を確立した。池大雅とも交友があり、京大阪における名声は応挙に劣らぬほどで、また奇行と風狂な人となりを伝える逸話を残している。
曾我蕭白の代表的な作品「寒山拾得図 」「雲龍図」「旧永島家襖絵」「月夜山水図 屏風」「美人図」「富士三保図屏風」等々。
 

曽我蕭白の作品  画風と買取価格のワンポイント

曽我蕭白

牧童群牛図屏風(右隻)

曽我蕭白の特徴は、細密で精確な描写能力で、対象の動性の的確かつ大胆な把握そして空間を生かす画風で、鮮やかな彩色は少なく、殆どが水墨画ですが、強烈な不安定さを生み出し、見るものを魅了し、驚かせる画風が人気です。人気があり贋作も多くありますが、水墨画でも本物であれば特別高価買取させて頂きます。

室町時代の画家曾我蛇足の画系積極的に取り入れ、白隠の影響と思われる太い墨線を用いる筆法で、気魄やユーモアも表現。重要文化財 の殆どは水墨画であり、曽我蕭白は 水墨画 を主な制作領域としていたと思われます。蕭白が「画が欲しいなら自分に頼み、絵図が欲しいなら円山応挙が良いだろう」と語ったと言われる。
「異端」「狂気」の 画家 と言われた曽我蕭白は、写生が基本の円山応挙には思うところがあったのでしょう。

曾我蕭白は江戸時代から「狂人」と評され、破天荒なエピソードをたくさん残しており、簡単に一例を上げておきます。

絵の注文を本願寺門主の命をうけた使いの僧が得意げになり、「我は本願寺門主の使いなり。蕭白はいないか。」と尋ねた。これを聞いた蕭白は家の中から大声で「どこの坊主か知らぬ失礼な、敬称もなしで蕭白言われ、蕭白はここにはおらん」と言えば、僧が聞こえてきたのは蕭白の声に似ていると思い直してもう一度、「先生はいないか」と尋ねると、蕭白はすぐに出てきて対応したという。

三重県松坂近郊の豪農が帰り道に金剛坂下で倒れていた青年に、呼び起こして話を聞くと、「おれは 画家 だが、腹が減ってもはや歩けなくなったから寝ているのだ」と言うので、家に連れ帰った。拾われた青年が曾我蕭白で、その家にしばらく留まると十畳の座敷の三方に梅を描いたという。当時、永島家ではちょうど家を新築しており、この時描かれたのが、「旧永島家襖絵」と言われている。現在、三重県立美術館が44面を所蔵しており、現存する蕭白の絵としては最大規模を誇っている。

 

 

 

曽我蕭白の作品をお持ちのお客様、お気軽にご相談ください。

掛軸 の場合、江戸時代の人物で滅多にありませんが、購入された時から入っている箱(共箱)は大切な箱で、共箱には曽我蕭白の自筆のサインと 落款 が押されています。
共箱は、保証書も兼ねており、有る・無しで、買取価格は大きく変動します。
曽我蕭白の 額装 の場合は、江戸時代の人物で 共シール は、ありません。

シミや汚れがある場合でも、現状のままお持ちください。

鑑定書 の有無に関わらず、まず当店で無料の 真贋 の判断やアドバイスをさせて頂きますので、お電話でご相談ください。
一般的に絵画の 鑑定 は、美術俱楽部やそれぞれの指定された 鑑定機関 で行われており、その場合、真贋を問うだけで、約3万円~5万円かかり、有料です。

【所定鑑定人・鑑定機関

曽我蕭白の場合、鑑定機関はありません。

当店では高額な作品も扱っております、一例ですがご覧ください。
お買取りさせて頂いた作品は価格を表示してホームページや店頭で販売しています。

曽我蕭白をはじめ買取させていただいた作家の作品も数多くあります、是非ご覧ください。

当店には曽我蕭白の愛好家やコレクターのお客様もおられ、新しい作品の入荷をお待ちです。
曽我蕭白の作品をお持ちのお客様は、お気軽にご相談頂ければ適切なアドバイスをさせて頂きますので、是非お問い合わせ下さい。

古美術やかたの店内写真

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曽我蕭白 略歴

曽我蕭白買取

雪山童子図

本姓は三浦、名は暉雄、蛇足軒、鸞山、師竜など 別号 が多い。京都の 商家 に父吉右衛門、母ヨツの次男として、屋号を丹波屋あるいは丹後屋という京都の商家に生まれた。丹波屋は江戸に支店を置ける程度の商家であったようだ。20歳代末には 画家 として立つ。一説に京狩野の流れをくむ高田敬輔や望月玉蟾に 師事 したという。敬輔の 弟子 らによって編纂された「敬輔画譜」にある門人録には蕭白の名がなく、証明する文献が無いことから、直接の弟子であったかどうかについては否定的な意見もある。ただ、高田敬輔とその門人たちに特徴的な 技法 を用いていることなどから、少なくとも高田敬輔の 画風 を学んだことは間違いないだろうと言われている。また曾我派、雲谷派の画法を学んだと記録され、実際の作品もそれを裏付ける。確かに蕭白の真体水墨画には、謹直な描線や垂直に切り立った崖の描写など、雲谷派との共通点が認められる。蕭白自身は室町時代の画家曾我蛇足の画系に属すると自称し、落款には「蛇足十世」などと記している。その頃曾我派の画系は絶えているが、濃墨を用い、荒々しい筆致で樹木や岩を デフォルメ して描く 作風 を、蕭白は積極的に取り入れていったと思われる。他にも、太い墨線を用いる筆法から白隠の影響を受け、その無法の手法だけでなく、その気魄やユーモアも吸収していると見られる。29~30歳ころと35歳ころに、2回伊勢地方を遊歴したらしく、津、松坂の寺院や旧家に障屛画などが残り、奇行と風狂な人となりを伝える逸話が記録されている。「群仙図」「旧永島家襖絵」などの代表作は2回目の伊勢滞在時に描かれたものと考えられている。30代前半の伊勢旅行では天然寺、朝田寺などで大画面の制作に力を発揮し、奇矯なデフォルメ、強烈な色彩や明暗のコントラスト、あくの強い自由奔放な筆法を特徴とする画風をつくり出すきっかけとなった。京坂における名声は応挙に劣らぬほどで、その奇行ぶりも多く伝えられている。また、33歳時と38歳時には、播磨に滞在していた。また38歳ころの播州滞在を物語る作品が伝存する。

当時の京都画壇では、中国の 文人画 に触発された 南画 と、写生を取り入れた平明な作品を描く円山派とが台頭して、狩野派など既成の流派に対抗していた。京都知恩寺に伝わる元代の画家顔輝の怪異な 人物画「蝦蟇鉄拐図」などを参考にしながら、狂人の表情、獣の手足、乞食の衣を備えた個性的な人物群像を作り出したほか、花鳥画山水画 でも 伝統 的な題材にデフォルメを加え、細密 な着色画から粗放な 水墨画 まで、卓抜な 技法 を駆使した奇怪な 画風 で評判をよんだ。少なくとも2度伊勢(三重県)地方を旅行し、多くの作品と逸話を生み、また播州(兵庫県)にも足跡を残した。禅宗の聖者や高雅な文人を機知的な見立てなどで卑俗な人物にやつす手法には当時の文芸と共通する趣向が働いており、交友のあった松波酊斎ら儒者や禅僧の顔ぶれからも、「奇」や「狂」の精神を尊ぶ明末の陽明学左派の思潮が、その発想法や無頼の行動に影響したらしい。池大雅に親しむ一方で、円山応挙の絵を「絵図」と蔑んだという逸話は彼の文人志向を示す。京都国立博物館に「群仙図 屏風」(1764)や菩提寺の臨済宗寺院興聖寺のために描いた「寒山拾得図」といった代表作が寄託され、三重県立美術館も重要な作品を所蔵する。また、フェノロサとビゲローが収集した多数の蕭白画がボストン美術館に伝わっており、玉石混交とはいえ質、量ともに最大のコレクションである。安永4年(1774年)刊行の「平安人物志」には、20人中15番目に載っており、住所は京都上京と記されている。安永6年(1777年)息子が夭折、蕭白も4年後に亡くなる。法名「一輝蕭白居士」。

一族と同様に興聖寺に葬られたが、蕭白の絵を好んだ人々が建て、富岡鉄斎 を揮毫した墓も残っている。弟子に、画名と作風からその可能性が高い曾我蕭月。また、横山華山や世古鶴皐、神原鳳章斎のように蕭白の画風を慕った幾人かの 絵師 が知られている。蕭白の特徴は、部分の 細密 で精確な描写能力と対象の動性の的確かつ大胆な把握にある。構図 における大胆な空間把握、顔料の性質を熟知した上になりたつさまざまな独創に支えられた鮮やかな彩色は、相共に強烈な不安定さを生み出し、見るものを魅了しまたおののかせる。江戸時代の画史においてすでに「異端」「狂気」の 画家 と位置付けられていた蕭白の絵は、仙人、唐獅子、中国の故事など伝統的な画題を、同じく正統的な 水墨画 技法 で描いていながら、その画題を醜悪、剽軽に描き出すなど表現は型破りで破天荒なものであり、見る者の神経を逆撫でするような強い印象を与えずにはおかない。当時、蕭白の作品は、同時代の円山応挙や池大雅、与謝蕪村ほどではないにしろ、一般の人々に受け入れられていた。蕭白の贋作が多いのは、贋作者のモチベーションを刺激しただけでなく、それだけ蕭白の人気が高かった裏付けともいえる。明治時代以降は評価が低かった。蕭白については、「異端」「奇想」という側面のみがもっぱら強調され、偏った評価を生んでいたとの反省をふまえ、より多様な視点からの研究が必要だとの指摘もある。

江戸時代から「狂人」と評されるなど、曾我蕭白には傲岸不遜(ごうがんふそん)、無頼(ぶらい)の 絵師 という逸話が残っている。
破天荒なエピソード話が残っている。

野垂れ死にかけて拾われる

松坂近郊の豪農が帰り道に通った金剛坂下である青年が倒れていた。頭のあたりには頭陀袋と筆が放り出されている。
その地の 豪農 が呼び起こして話を聞くと「おれは 画家 だが、腹が減ってもはや歩けなくなったから寝ているのだ」と返事をした。
捨て置くこともできず家に連れ帰ったその青年が曾我蕭白で、その家にしばらく留まると十畳の座敷の三方に梅を描いたという。
この時描かれたのが、「旧永島家襖絵」と言われている。当時、永島家ではちょうど家を新築しており、その襖絵を蕭白が手がけることになったのだ。襖絵は現在、三重県立美術館が44面を所蔵しており、現存する蕭白の絵としては最大規模を誇っている。

安い作画料を拒む

岡山県の近くの殿様が蕭白の画才を聞きつけ、金屏風に何か描いて欲しいと依頼。
蕭白は依頼に応じて一気呵成に描き上げた。この 屏風 を気に入った殿様は銀子7枚を渡そうとすると、蕭白は「数枚の銀子では我が大手筆に報いるにあたわず」と受け取ろうとしなかった。殿様は安い作画料を出してしまった自分を恥じて、さらに銀子50枚を足して渡した。

本願寺の門主の使いの僧を追い返す

蕭白が京都に住んでいた頃、本願寺の門主が蕭白に絵を注文するために使いの僧を出した。この使いの僧は本願寺門主の命をうけたことで得意げになり、蕭白の家の戸を叩き「我は本願寺門主の使いなり。蕭白はいないか。」と尋ねた。これを聞いた蕭白は家の中から大声で「どこの坊主か知らぬが不遜なるぞ。ただ蕭白とばかり呼ばれる蕭白はここにはおらん!」とののしって追い返したという。ちなみに他の文献では、この話の続きがある。使いの僧が先ほど聞こえてきたのは蕭白の声に似ていると思い直して引き返し、「先生はいないか。」と尋ねた。すると蕭白はすぐに出てきて対応したという。

曽我蕭白の主な出来事や作品の年表

1730年(享保15)京都の 商家 に(丹波屋もしくは丹後屋)の吉右衛門・ヨツの子として生まれる。本姓三浦氏か?
京都市上京区の興聖寺には、蕭白の代表作『寒山拾得(かんざんじっとく)図』が残るほか、蕭白とその一族の墓もある。兄と妹がおり、兄は蕭白が11歳の時(元文5年、1740年)江戸で亡くなっていることから、丹波屋は江戸に支店を置ける程度の 商家 であったようだ。菩提寺の興聖寺の所在地が西陣に近いことなどから、丹波屋は紺屋だった可能性がある。
寛保3年(1743年)2月に父・吉右衛門が亡くなる。この頃の蕭白は、伊勢の久居の米屋で奉公していたという 伝承 が残る。
さらに永享3年(1746年)1月、母ヨツが亡くなり、丹波屋も潰れてしまったようだ。
そして蕭白は孤独のうちに生きることを強いられることとなる。

1758年(宝暦8)この年から翌年にかけて伊勢地方に滞在、津市・西来寺の襖絵「竹林七賢図襖絵」(焼失)他を制作。
1760年(宝暦10)<<林和靖図 屏風>> 制作。
1761年(宝暦11)播州高砂に滞在。
1764年(明和元)再び伊勢地方に滞在。
<<旧永島家襖絵>>、<<群仙図 屏風 >>、松阪・継松寺「雪山童子図」、朝田寺「唐獅子図」他制作。
1767年(明和4)再び播州高砂に滞在。
1771年(明和8)三度目の伊勢地方滞在か。津藩儒奥田三角と交遊。
1775年(安永4)京都上京に住む。
(1774年)刊行の『平安人物志』には、著名な作家円山応挙伊藤若冲・池大雅・与謝蕪村とともに20人中15番目に載っており、住所は京都上京と記されている。
1779年(安永8)晩年に伝曾我直庵鷹図、伝狩野山楽 花鳥図 に 鑑定 書を認める。
1781年(天明元)正月七日に歿。あくの強い自由奔放な筆法を特徴とする 画風 をつくり出すきっかけとなった。
京坂における名声は応挙に劣らぬほどで、その奇行ぶりも多く伝えられている。

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中国美術の昔の玉で出来た湯冷ましを茶道具出張買取依頼を頂き、お譲り頂きました。

写真が13枚あります。くわしくはこちら 中国 骨董品 の湯冷ましで、時代は清朝時代の作品だと思われます。可愛いモチーフで、丁寧に彫られた昔の 職人技 が光る湯冷ましで、色味 も素晴らしい 逸品 で買取ました。採光の加減で白く光っておりますが、ご覧のように 保存状態 の良い品物で、傷んでいるところはありません。ご覧のように細部まで丁寧に作られており、非常に出来の良い作品で高価買取させて頂きました。この作品は、競り市やオークションで買い受けた作品ではありません。直接お客様より入荷した、うぶ荷と呼ばれる貴重な蔵出しの作品で、現状のまま販売しております。 湯冷ましについて少し説明します。 お茶に使用する湯を冷ますための茶器で、湯の温度を効率良く下げるため底より口の方が大きく作られています。日本独特のお茶である玉露は60℃前後が適温ですが、ティーポットややかんで沸かしたてのお湯は熱いので、美味しくお茶を頂くのに方法として湯冷ましが作られました。湯冷ましは日本独特のお茶の玉露を最高の状態で美味しく飲む道具として作られ、日本が考えた独自の茶道具です。

 

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