伊藤若冲 買取
伊藤若冲は18世紀を代表する日本画家で、極彩色の花鳥画とユニークで大胆な構図の水墨画を得意とした。
まさに超絶技巧と言われる代表作の「動植綵絵」は、日本美術史における花鳥画の最高傑作です。
鶏をはじめ、動植物の姿を生き生きと躍動的に描いた若冲らしい名品は、高価に買取させて頂きます。
日本一、歴史ある
京都祇園骨董街にあります。
京都は千年も続いた都です。
京都祇園骨董街の中でも当店は、歴史的保全地区に指定されています。
約80軒の古美術骨董商が軒を連ねる、
日本でもトップの祇園骨董街にある老舗の骨董店です。
京都祇園で小売販売している
老舗骨董店だからこそ高価買取出来るのです。
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店頭には買取商品を常時2000点以上展示販売しており、
愛好家やコレクターの方が品物の入荷をお待ちです。
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第一と考えております。
ホームページや店頭にて販売する価格を提示して、買取りさせて頂いております。
是非、ご来店頂くか、ホームページをご覧下さい。
京都祇園で昭和56年に開業、長年の信頼と実績があります。
●お譲り頂いた品物を直接販売しており、入荷をお待ちのお客様もたくさんおられます。
★古美術やかたでは、日本の古美術骨董品を後世に伝えたいと信念を貫き、半世紀営業してきました。
「品揃えが豊富で専門店にない面白味がある店」と、世界各国の美術館・博物館や愛好家の方々に来店頂き、買取から販売を一括しており、他店では真似の出来ない、独自の営業方針や特殊な骨董業界の説明をご覧ください。
伊藤若冲の作品ー査定・買取ポイントのアドバイス
伊藤若冲(いとう じゃくちゅう)・特徴と技法
1716年(正徳6)~1800年(寛政12)85才没。
伊藤若冲は、鶏の絵を最も得意とした、18世紀を代表する日本 画家 です。
江戸時代中期、京都錦小路の青物問屋「桝屋」長男として生まれる、名は汝鈞、字は景和。
23歳で家業を継ぐが、商売にはあまり関心が無く、頭の中は絵筆を握りたいという思いが強くあり、青物商に由来する様々な野菜を、野菜涅槃図と言う、それまでの日本の絵画史には見られないユニークな絵画を生み出した。
絵を描くことが人生の喜びの全てで、相国寺の 高僧 から「人の楽しむところ一つも求むる所なく」と評されている。
30歳を過ぎてから絵を本格的に学び始め、狩野派の 絵師 に 師事 したが、「狩野派 と異なる自分の画法を築けない」と思い、画塾 を辞めて独学で腕を磨く。その後、京都の古寺に伝わる宋、元、明時代の 中国画 を 模写 し、当時流行した沈南蘋の 細密 な花鳥画や黄檗宗関係の水墨画などの影響を受け、写実 と想像を巧みに融合させた独自の 画風 を完成させる。この頃、相国寺 の大典顕常や売茶翁と知り合い、「若冲居士」と 号 する。
39歳で弟に 家督 を譲り、以後、作画制作に専念する。やがて、目の前の対象(実物)を描くことで真の姿を表現しようと、庭で数十羽の鶏を飼い始める。
鶏の生態をひたすら観察し、2年以上写生し続けて、生き物の内側に宿る「神気」(神の気)を捉えた。
その後は、鶏だけでなく、草木や岩にまで「神気」が見え、あらゆる生き物を自在に描けるようになる。
1758年頃から代表作となる、三十幅にも及ぶ「動植綵絵」の制作に着手し、約10年後に完成。
鶏、鳳凰、草花、魚介類などの身近な動植物を モチーフ とし、最高級の岩絵具をふんだんに用いて 極彩色 で華麗に描いた作品は、日本美術史における 花鳥画 の最高傑作となった。
また同時に 水墨画、版画、絵巻、屏風 絵など数多くの 名品 を生み出し、当時の文化人・名士録『平安人物志』の中で、円山応挙に次いで2番目に記載されるほど著名な作家となった。
天明の大火で焼け出され、大阪へ逃れた若冲は、70歳を過ぎて初めて家計の為に絵を描くことになる。
西福寺の金地の襖には「仙人掌群鶏図」を描いた。
最 晩年 は京都の石峯寺で隠棲し、画一枚を米一斗で売る悠々自適の生活を送っていたことから、斗米庵と 号 する。
作画三昧の中でユニークな作品を数多く描き上げ、85歳で逝去、生涯独身だった。
若冲の筆致を、より鮮明に際立たせる技法の一つが裏彩色(画面の裏にも絵具を入れる)です。
多くの 絹本 着色画に、この裏彩色の 技法 を取り入れており、絹地と絵具を巧みに操って色艶やかな世界を創り出しました。
この技法は、主に平安時代の 仏画 に多く用いられており、若冲は数多の 模写 をする中でこの画法を学んだようです。
伊藤若冲の作品 画風と買取価格のワンポイント
伊藤若冲は、美しい色彩と細密な描写を特徴とし、鶏・鳳凰・草花・魚介類などの動植物の姿を生き生きと躍動的に描く、独自の画風を確立しました。
特に鶏の絵を得意としており、贋作も多くありますが、本物の肉筆画は、高価買取対象です。
極彩色の花鳥画や、ユニークで大胆な構図の水墨画などは特別高価に買取させて頂きます。
伊藤若冲は宋、元、明時代の 中国画 を模写し、当時流行した沈南蘋の 細密 な花鳥画や水墨画などを独学で研究しました。また、野菜や魚、自宅の庭で飼っていた鶏など、身の回りの物をひたすら観察し、写生する事によって、動植物の姿を生き生きと躍動的に、ありのままに細密に描くという、独自の 画風 を確立しました。
漫画的でユニークな水墨画や超絶 技巧 と言われる極彩色の花鳥画まで、様々な 名品 を多く残しています。
日本画 は簡単に描かれた作品から時間をかけた力作、また大きさや 図柄 により買取価格は大きく変わります。
伊藤若冲の場合、若書き の作品よりも、晩年 に描かれた全盛期の 花鳥画 や 水墨画 が人気で、高価買取対象です。
正徳 6年(1716)京都の青物問屋「桝屋」の長男として生まれる。名は汝鈞、字は景和。
元文 3年(1738)父が死去、家業を継ぐ。
30歳を過ぎてから絵を本格的に学び始め、狩野派の 絵師 に 師事 したが、その後 画塾 を辞めて 独学 で腕を磨く。
さらに、京都の古寺に伝わる宋、元、明時代の 中国画 を 模写 し、技術を習得する。
宝暦 2年(1752)相国寺 大典顕常、売茶翁を知る。この頃から若冲居士と号す。
宝暦 5年(1755)39歳で家督を次弟の宗厳に譲り、隠居。作画に専念する。鶏を飼い始めひたすら観察する。
2年以上写生し続け、鶏だけでなく、あらゆる生き物の内側に宿る「神気」を捉え、独自の 画風 を完成させる。
宝暦 8年(1758)代表作となる「動植綵絵」の制作に着手し、約10年かけて完成させる。
天明 8年(1788)天明の大火で焼け出されて大阪へ逃れる。
寛政元年(1789)大阪西福寺の金地の襖に「仙人掌群鶏図」を描く。
寛政 2年(1790)京都深草の石峰寺に隠棲する。
寛政 4年(1792)弟が他界、画一枚を米一斗で売る悠々自適の生活を送る。
寛政12年(1800)9月8日逝去、享年85歳。
伊藤若冲の作品をお持ちのお客様、お気軽にご相談ください。
伊藤若冲は江戸時代の人物なので数が少ないのですが、購入された時から入っている箱(共箱)は大切な箱です。
共箱には伊藤若冲の自筆のサインと 落款 が押されています。
共箱 は、保証書も兼ねており、有る・無しで、買取価格は大きく変動します。
下記のような汚れや剥脱があっても、現状のままお持ちください。
日本画は、「蔵シミ」や「ほし」と言われる汚れが出やすく、買取価格も変わってくるので、出来ればご確認ください。
明るい所か、ライトをあてて画面を良く見てください。
鑑定書 の有無に関わらず、まず当店で無料の 真贋 の判断やアドバイスをさせて頂きますので、お電話でご相談ください。
一般的に絵画の 鑑定 は、美術俱楽部やそれぞれの指定された 鑑定機関 で行われており、その場合、真贋を問うだけで、約3万円~5万円かかり、有料です。
【所定鑑定人・鑑定機関】
伊藤若冲の場合、鑑定機関はありません。
当店では高額な作品も扱っております、一例ですがご覧ください。
お買取りさせて頂いた作品は価格を表示してホームページや店頭で販売しています。
伊藤若冲をはじめ買取させていただいた作家の作品も数多くあります、是非ご覧ください。
当店には伊藤若冲の愛好家やコレクターのお客様もおられ、新しい作品の入荷をお待ちです。
伊藤若冲の作品をお持ちのお客様は、お気軽にご相談頂ければ適切なアドバイスをさせて頂きますので、是非お問い合わせ下さい。
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メディア紹介 MEDIA
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- 『和楽』7月号 樋口可南子さんがお店へ!!
- 『婦人画報』2012年5月号
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- NHK『美の壺』(4月24日放送)
- 『和楽』10月号
- 『Hanako 京都案内』
- 『FIGARO japon』12月号
- 『mr partner』2011年2月号
- 2009年11月 『週刊現代』2009年11月28日号
- 『Hanako WEST』4月号
- 『骨董古美術の愉しみ方』(4月16日発行)
- 『近代盆栽』9月号
- 『Hanako WEST』11月号
- 『ORANGE travel』2006年 SUMMER
- 『婦人画報』2004年9月号
- 国際交流サービス協会に2017年6月7日紹介頂きました。
- 『Grazia』6月号
- 『VISIO ビジオ・モノ』5月号
- 『Hanako WEST』4月号
- 『gli』11月号
- オレンジページムック『インテリア』No.23
- 『MORE』12月号
- 『花時間』7月号
- 『東京育ちの京都案内』麻生圭子著 文芸春秋刊
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伊藤若冲 略歴
八百屋や魚屋が軒を連ねる京の胃袋、錦小路の青物問屋の長男として生まれる。
海の幸や山の幸に囲まれて過ごしたことは、若冲の原体験として後の作品に反映されている。
生家の青物商に由来するさまざまな野菜は、野菜涅槃図というような、
それまでの日本の絵画史には見られないユニークな絵画を生み出し、その他の誰にも真似のできない 画風 が注目され、人気を読んでいる。
22歳で父が没し家業を継いだが、頭の中は絵筆を握りたいという思いしかなかった。
若冲は絵を描くことが人生の喜びの全てで、芸事にも酒にも女遊びにも興味がなく、世間の雑事のみならず、商売にもあまり関心がなかったらしい。
若冲と親しかった京都 相国寺 の禅僧は、若冲は「人の楽しむところ一つも求むる所なく」と評している。何がきっかけで絵に目覚めたのか不明だが、30歳を過ぎてから絵を本格的に学び始めた。
最初は他の 画家 と同じ様に、当時の 画壇 の主流だった狩野派の門を叩いたが、「狩野派から学ぶ限り 狩野派 と異なる自分の画法を築けない」と考え、独学 で腕を磨いていった。
さらに 中国画 を所有する寺院に通い 模写 をしていくが、京都には 中国画 の名画を所蔵する寺が多く、彼は模写の為に各寺へ通い続けた。
若冲は修行僧のように頭を剃り、肉を食べずに、平安錦街居士と自ら称した。
模写は1000点に及ぶと言われているが、原型を超えることはできないと限界を感じ、描く対象を、目の前の実物の写生へと移っていき、写実 描写様式を完成させていった。
絵にかける思いは年々つのり、家業と画業の二重生活が苦しくなったのか、ある時若冲は店を家人に任せて丹波の山奥に入り、2年間も音信が途絶えてしまうこともあった。
その後、1755年、39歳で弟に 家督 を譲って隠居するが、弟は兄をよく理解し、画業を経済面から支えた。
これ以後、若冲は四半世紀の間、ずっと作画に専念し、目の前の対象(実物)を描くことで真の姿を表現しようとした。
写実 のため庭で数十羽の鶏を飼い始めるが、朝から晩まで鶏の生態をひたすら観察し、そして一年が過ぎる頃に生き物の内側に神気をとらえ、おのずと鉛筆が動き出したという。
鶏の写生は2年以上も続き、草木や岩までも神気が見え自在に描けるようになったといわれている。
1758年頃から代表作となる三十幅にも及ぶ 花鳥画 連作群「動植綵絵」の制作に着手する。
身近な動植物をモチーフとし、10年近くの歳月をかけて完成させ、日本美術史における花鳥画の最高傑作となった。
また同時に 水墨画、版画、絵巻、屏風 絵など数多くの名品を生み出す。
この頃から京都では12歳年下の円山応挙が大ブレイク、円山派が都の 画壇 を占めていた。
若冲は一匹狼の 画家 で朝廷や政権にコネも何もなかったが、当時の文化人・名士録『平安人物志』の中で、円山応挙に次いで2番目に記載されるほど 著名 な作家となった。
1788年には京で発生した大火災によって住居も画室も天明の大火で焼失、70歳を過ぎて初めて生活のために絵を描くことになる。
京を火の海にしたこの大火事で、彼の家も画室も灰になり、焼け出されて大阪へ逃れた。
私財を失って生活は貧窮し、若冲は70の齢を過ぎて初めて家計の為に絵を描くことになった。
1790年(74歳)から最後の10年間は、京都深草の石峯寺の門前に庵をむすんで隠棲した。
1792年(76歳)にずっと彼を援助してくれた弟が他界してからは、画一枚を米一斗で売る暮らしを送るようになる。
ただし、この 晩年 が若冲にとって悲しみに満ちたものかというと、元来無欲な彼にとって貧困は苦にならず、むしろ悠々自適の様子であったと伝えられている。
最 晩年 の若冲は、石峯寺の本堂背後に釈迦の誕生から涅槃までの一代記を描いた石仏群・五百羅漢像を築く計画を練る。
若冲が下絵を描き石工が彫り上げた五百羅漢像は、住職と妹の協力を得て10年弱で完成した。
釈尊入滅を描いた「果蔬涅槃図」では絵の登場人物をすべて野菜に置き換えて描くなど奇想な 画家 としても有名で、生存中は名声を博していたが、明治以降は一般には不当に評価が低く忘れがちな時期もあった。
しかし20世紀後半から再評価が進み、1990年代後半以降、超絶な 技巧 や奇抜な構成など独創性豊かな京都を代表する 絵師 として、飛躍的に知名度と人気を高めていった。
伊藤若冲の主な出来事や作品の年表
正徳 6年(1716)京都錦小路の青物問屋「桝屋」の長男として生まれる。名は汝鈞、字は景和。
元文 3年(1738)父が死去、「桝屋」当主になる。四代目伊藤源左衛門を名乗る。
家業の傍らで、絵を本格的に学び始める。最初は狩野派の 絵師 に 師事 したものの、狩野派 から学ぶ限り、それと異なる自分の画法を築けないと考え、独学 で腕を磨く。
さらに、京都の古寺に伝わる宋、元、明時代の 中国画 を 模写 し、技術を習得する。
宝暦 2年(1752)相国寺 大典顕常、売茶翁を知る。この頃から若冲居士と号す。
宝暦 5年(1755)家督 を次弟宗厳に譲り、茂右衛門と改名して隠居。作画に専念する。
写実のため庭で数十羽の鶏を飼い始めるが、鶏の生態をひたすら観察し、一年が過ぎる頃に生き物の内側に神気を捉え、身の回りの野菜や草花、鳥虫類にも神気が見えるようになり、独自の 画風 を完成させる。
宝暦 8年 (1758)この頃から代表作となる三十幅にも及ぶ花鳥画連作群「動植綵絵」の制作に着手し、10年近くの歳月をかけて完成させ、日本美術史における 花鳥画 の最高傑作となる。
宝暦 9年 (1759)京都鹿苑寺の大書院に水墨障壁画を制作する。
明和元年(1764)金刀比羅宮奥書院上段の間に「花卉図」、二の間に「山水図」、三の間に「蕪子花図」、広間に「垂柳図」を描く。
明和 5年 (1768)「平安人物志」絵師 の項に円山応挙に次いで二番目に名前が記載される。
天明 8年 (1788)天明の大火で焼け出されて大阪へ逃れる。
寛政元年(1789)大阪西福寺の金地の襖に「仙人掌群鶏図」を描く。
寛政 2年 (1790)大病を患う。京都深草の石峰寺に隠棲する。この頃、石峰寺の「五百羅漢石像」を手掛ける。
寛政 3年 (1791)困窮により 相国寺 との永代供養の契約を解除。
寛政 4年 (1792)援助してくれた弟が他界、画一枚を米一斗で売る悠々自適の生活を送る。
寛政10年(1798)晩年に石峰寺の観音堂に167面の天井画「花卉図」を遺す。
寛政12年(1800)9月8日逝去、享年85歳。石峰寺に土葬され、生涯独身だった。
昭和45年(1970)辻惟雄の『奇想の系譜』が出版されて以来注目を浴びる。
平成 2年 (1990)以降、その超絶した 技巧 や奇抜な構成が再評価され、飛躍的にその知名度と人気を上げている。
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