濱田庄司 買取

浜田庄司は、「素早く絵柄を描く俊敏な筆の使い手」で、人間国宝に認定された益子焼の代表的な陶芸家です。
民藝運動を推進した中心的存在で、作陶の拠点であった益子の土と釉薬を用いた力強く健康的な作品です。
濱田庄司が得意とした流掛や赤絵、塩釉などの技法や、「黍文」と呼ばれる独自の文様を施した作品は人気があります。

日本一、歴史ある京都祇園骨董街にあります。

京都は千年も続いた都です。
京都祇園骨董街の中でも当店は、歴史的保全地区に指定されています。
約80軒の古美術骨董商が軒を連ねる、
日本でもトップの祇園骨董街にある老舗の骨董店です。

京都祇園で小売販売している老舗骨董店だからこそ高価買取出来るのです。

世界各国から1日100名近くのお客様がご来店頂いております。
店頭には買取商品を常時2000点以上展示販売しており、愛好家やコレクターの方が品物の入荷をお待ちです。

買取依頼のお客様に納得して頂くことを第一と考えております。

ホームページや店頭にて販売する価格を提示して、買取りさせて頂いております。
是非、ご来店頂くか、ホームページをご覧下さい。
京都祇園で昭和56年に開業、長年の信頼と実績があります。

京都美術倶楽部大阪美術倶楽部鴨東古美術会京都古書組合東京古書組合に加盟しております。

濱田庄司の作品ー査定・買取ポイントのアドバイス

濱田庄司(はまだ しょうじ)

濱田庄司買取

柿釉赤繪方瓶

1894年(明治27)~1978年(昭和53)83才没。
 
神奈川県橘樹郡高津村溝ノ口の母の実家で文房具屋の長男として生まれる。
東京府立一中時代に 陶芸家 の道を志して、東京高等工業学校窯業科に入学し、板谷波山師事 し窯業の基礎科学面を学び、上級生だった河井寬次郎と親交を深める。
卒業後は、京都市立 陶芸 試験場にて河井寛次郎と共に 釉薬 の研究を行い、1919年の頃 柳宗悦、富本憲吉バーナード・リーチと知り合う。
彼らと民藝運動を推進した中心的存在であり、民藝理論のよき実践者であった。
その後、栃木県益子町で作陶を開始し、手 轆轤 のみを使用するシンプルな造形、釉薬の流描による大胆な模様を得意とし、 益子焼の代表的な作家となる。
1955年に第1回の人間国宝に認定され、1968年には 文化勲章 を受章する。
民芸運動に熱心で、1961年、日本民藝館の第2代館長に就任する。
また、1977年には、自ら蒐集した 民芸品 を展示する益子参考館を開館している。
主な作品には、赤絵丸文角瓶、赤絵丸文急須、柿釉青流描角鉢、白釉黒流描鉢、「無盡蔵」書籍、「窯にまかせて」書籍。
 

濱田庄司の作品  作風と買取価格のワンポイント

濱田庄司買取

柿青釉白格子描大鉢

手轆轤で造り出すシンプルな造形に、釉薬の流描による大胆な模様を施すという技法の逸品が人気がです。流掛や赤絵、塩釉などの技法や、「黍文」と呼ばれる独自の文様を施した作品は高価買取対象です。
 
簡単な作品から時間をかけた力作、またデザインや種類により買取価格は変わってきます。
若年 の作品よりも、独自の境地を築いた晩年の名品が高価買取対象です。
「私の陶芸の仕事は、京都で道を見つけ、英国で始まり、沖縄で学び、益子で育った」濱田庄司。

 

 
明治27年(1894)神奈川県橘樹郡の母の実家で文房具屋の長男として生まれる。
大正2年(1913) 東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科入学し、上級の河井寛次郎と親交を結ぶ。
        板谷波山師事
大正5年(1916) 東京高等工業学校窯業科卒業。
        河井寛次郎と共に京都市立陶芸試験場にて主に 釉薬 の研究を行う。
        近藤悠三轆轤 を学ぶ。
大正8年(1919)我孫子の柳邸にバーナード・リーチを訪問した折に柳宗悦と出会う。
大正9年(1920)リーチとともに渡英し、セント・アイヴスで、3年余り本格的に作陶に挑戦する。
昭和5年(1930) 栃木県益子町の農家を購入して移築、住居のわきに登 を築き、作陶を開始。
        以降生涯一貫して益子で制作を続ける。
昭和6年 (1931)登り窯 を築く。
昭和30年(1955)第1回重要 無形文化財「民芸陶器」保持者(人間国宝)に認定。
昭和39年(1964)紫綬褒章受章
昭和43年(1968)文化勲章 受章。長年にわたるひたむきな作陶活動が高い評価を受ける。
昭和52年(1977)益子参考館開館。館長に就任。
昭和53年(1978)1月5日、益子にて逝去。83歳。
 

 

濱田庄司の作品をお持ちのお客様、お気軽にご相談ください。

濱田庄司の作品の場合は、購入された時から入っている箱(共箱)は大切な箱で、共箱には濱田庄司の自筆のサインと 落款 が押されています。共箱は、保証書も兼ねており、有る・無しで、買取価格は大きく変動します。
 
汚れや傷みがある場合でも、現状のままお持ちください。
 
鑑定証 の有無に関わらず、まず当店で無料の 真贋 の判断やアドバイスをさせて頂きますので、お電話でご相談ください。一般的に 絵画 の 鑑定 は、美術俱楽部やそれぞれの指定された 鑑定機関 で行われており、その場合、真贋を問うだけで、約3万円~5万円かかり、有料です。
 
【所定鑑定人・鑑定機関

浜田晋作

住所
〒 321-4217 栃木県芳賀郡益子町益子3387
電話番号
0285-72-5311
 
当店では高額な作品も扱っております、一例ですがご覧ください。
お買取りさせて頂いた作品は価格を表示してホームページや店頭で販売しています。

濱田庄司をはじめ買取させていただいた作家の作品も数多くあります、是非ご覧ください。

当店には濱田庄司の愛好家やコレクターのお客様もおられ、新しい作品の入荷をお待ちです。
濱田庄司の作品をお持ちのお客様は、お気軽にご相談頂ければ、適切なアドバイスをさせて頂きますので、是非お問い合わせ下さい。

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濱田庄司 略歴

濱田庄司買取

柿釉抜繪皿

神奈川県橘樹郡高津村(現在の川崎市)溝ノ口の母の実家で生まれる。
本名は象二と言い、15歳のときルノアールのことばに触発されて工芸を志す。
東京府立一中(現東京都立日比谷高等学校)を経て、1913年(大正2年)19歳で、東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科に入学、板谷波山師事 し、
窯業の基礎科学面を学ぶ。
1916年(大正5年)同校を卒業後は、2年先輩の河井寛次郎と共に京都市立陶芸試験場にて主に釉薬の研究を行う。
またこの頃、柳宗悦、富本憲吉バーナード・リーチの知遇を得る。
1920年(大正9年)イギリスに帰国するリーチに同行、共同してコーンウォール州セント・アイヴスに築窯する。
1923年(大正12年)にはロンドンで個展を開催し成功をおさめ、1924年(大正13年)帰国。
しばらくは沖縄の古窯「 屋」などで、伝統 的な 技法 やかたちを学び、「黍文」や「赤絵」など、濱田の独特な表現を身に付けた。
また、柳宗悦らと民芸運動を推進し、民藝運動の中心人物として各地の窯を調査し、その成果を自らの制作にも活かすなど、第一線で活躍した。
1930年(昭和5年)からは、それまでも深い関心を寄せていた益子焼の産地、栃木県益子町で作陶を開始、益子の陶土や 釉薬 を基本として無作為ともみえる加飾を重厚な器に施した質朴雄勁な 作風 を確立し、1935年(昭和10年)には独自の様式を完成させた。
殆ど手 轆轤 のみを使用するシンプルな造形と、釉薬 の流描による大胆な模様を得意とし、益子で用いられてきた陶土や釉薬を使い、闊達で格調高い作品を制作した。
戦後、1955年(昭和30年)2月15日には第1回の重要 無形文化財 保持者(人間国宝)(工芸技術部門陶芸民芸 陶器)に認定。
1964年(昭和39年)に紫綬褒章、1968年(昭和43年)には 文化勲章受賞する。
1961年(昭和36年)柳宗悦の流れをうけて民芸運動に熱心であり、柳の没後は日本民藝館の第2代館長に就任する。
1968年(昭和43年)には、陶芸家 として3人目となる文化勲章を受章
1977年(昭和52年)には自ら蒐集した日本国内外の 民芸品 を展示する益子参考館を開館し、多くの作品が陳列されている。
1978年(昭和53年)益子にて死去、83歳で亡くなるまで、第一線で活躍した。
濱田庄司はその生涯に力強く気品のある魅力的な作品の数々を生み出したが、作品だけでなく、その指導を受けて多くの優秀な陶藝作家も育てた。
格言に「願は大きく立てよ。立てたら向きは変えるな、あとは非妥協一本槍で行け」がある。

濱田庄司の主な出来事や作品の年表

明治27年(1894)神奈川県橘樹郡の母の実家で文具屋の長男として生まれる。
明治41年(1908)東京府立一中入学。
大正2年(1913) 東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科入学し、上級の河井寛次郎と親交を結ぶ。
板谷波山師事
大正5年(1916) 東京高等工業学校窯業科卒業。
河井寛次郎と共に京都市立 陶芸 試験場にて主に釉薬の研究を行う。
近藤悠三に 轆轤 を学ぶ。
大正8年(1919)我孫子の柳邸にバーナード・リーチを訪問した折に柳宗悦と出会う。
大正9年(1920)リーチとともに渡英し、セント・アイヴスで、3年余り本格的に作陶に挑戦する。
大正13年(1924)この頃帰国し、京都の河井寛次郎邸に滞在中、柳と河井を引き合わせる。
確かな生活に根差した製作の場を求め、栃木県の益子へ居を移し以後活動の拠点とする。
昭和3年(1928) この頃、沖縄にも長期滞在し、作品を残している。
昭和5年(1930) 栃木県益子町の農家を購入して移築、住居のわきに登窯を築き、作陶を開始。
以降生涯一貫して益子で制作を続ける。
昭和6年 (1931)登り窯 を築く。
昭和13年(1937)国画会退会。
日本民芸館理事に就任。
昭和18年(1942)益子に大型登窯築
昭和22年(1947)国画会復帰。
昭和24年(1949)第1回栃木県 文化功労章。
昭和28年(1953)昭和27年度芸術選奨文部大臣賞。
昭和30年(1955)第1回重要無形文化財「民芸陶器」保持者(人間国宝)に認定。
昭和37年(1962)濱田は、柳、河井とともに民藝運動を推進した中心的存在であり、同時に民藝理論のよき実践者であった。
物心両面から民藝運動を支え、柳宗悦のあとを継ぎ日本民芸館館長に就任。
日本民藝館が所蔵する濱田庄司の作品は約450点。
作陶の拠点であった益子の土と釉薬を用いた作品が多い。
濱田が得意とした流掛や 赤絵、塩釉などの 技法 や、
「黍文」と呼ばれる独自の文様を施した作品は、どれも力強く健康的である。
昭和39年(1964)紫綬褒章受章
昭和43年(1968)文化勲章受章。長年にわたるひたむきな作陶活動が高い評価を受ける。
昭和44年(1969)益子名誉町民。
昭和48年(1973)ロンドン王立美術大学名誉学位。
日本民芸協会会長就任。
昭和51年(1976)川崎市文化賞受賞。
昭和52年(1977)益子参考館開館。館長に就任。
昭和53年(1978)1月5日、益子にて逝去。83歳。

 

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