関ヶ原の戦

関ヶ原の戦( せきがはらのたたかい )

1600年9月15日関ヶ原で徳川家康らの東軍が石田三成らの西軍を破った戦い。豊臣秀吉の死後、天下の実権を握った家康は三成と対立し、それぞれ諸大名を糾合して戦ったが、小早川秀秋の寝返りにあった西軍は惨敗し、三成らは処刑され、豊臣秀頼は摂津・河内・和泉六〇万石の一大名に転落した。この結果、徳川氏の覇権が確立。俗に「天下分け目の戦い」という。

慶長5年(1600)関ヶ原で、石田三成らの西軍と、徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝し、石田三成らは処刑され、豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。

1600年(慶長5)9月、徳川家康の率いる東軍と、石田三成を中心とする西軍によって、美濃国関ヶ原(岐阜県不破郡関ヶ原町)で行われた「天下分け目」の戦い。

慶長3年豊臣秀吉が死ぬと、五大老、五奉行制に立脚していた豊臣政権は五大老筆頭の徳川家康が政権獲得への野心を示したことから動揺をみせはじめた。豊臣家内部にも対立があり、秀吉の正室である北政所は徳川家康と、側室淀君は石田三成と手を結んだ。同4年五大老の一人として豊臣秀頼を補佐して家康との対立関係を調整していた前田利家が死ぬと家康の策動は表面化し、石田三成に反対する大名加藤清正や福島正則を味方につけることに成功し、対立は激化した。同5年6月上杉景勝が会津に引きこもって家康に抵抗したので軍を進めたが、これは三成の挙兵を挑発する策動であった。三成は主として毛利、宇喜多、島津、小早川など西国大名を糾合して同年7月挙兵した。家康は長男結城秀康を上杉と対陣させ、みずからは東海道を、秀忠には東山道を進ませ、同9月 15日関ヶ原で戦闘が始った。西軍には大将と目するものが存在せず足並みがそろわず苦戦し、そのうえ小早川秀秋の裏切りにあって総くずれとなった。戦後、石田三成、小西行長、安国寺恵瓊は処刑され、その他は降参。石田方に味方した大名への処罰はきびしく改易 91家 420万石、減封4家であった。また豊臣秀頼は摂津、河内、和泉を領する一大名にすぎなくなり、ここに徳川氏の覇権が確立した。