挿絵

挿絵 ( さしえ )

図書や雑誌、新聞などの解説を補うためや興味を持たせるために挿入される絵。

記述内容への関心や理解を深めるため、新聞、雑誌、書物などの文中に挿入される絵。

日本における挿絵
平安時代から鎌倉時代にかけてつくられた絵巻の絵も、一種の挿絵と考えることができるが、今日ではむしろ独立した絵画として鑑賞されている。
室町時代以後、たとえば御伽草子(おとぎぞうし)などのようなより庶民的な読み物が生まれ、挿絵もそれに即した性格を強めていった。江戸時代に活版技術が導入されると、挿絵はさらに発達し、いわゆる赤本、黄表紙などの大衆本が生まれ、物語作者と挿絵画家の合作も広く行われるようになった。
挿絵が、文字の読めない人々にも、書物に対する親近感をおこさせた事実は重要である。
明治になって新聞、雑誌が大量に刊行されるようになると、小説や読み物には多くの場合挿絵が要求されたために、その需要が急激に増大した。
すでに美術界で名をなした画家たちがこれらの挿絵を担当することも多かったが、別に、挿絵によって名声を得た画家も生まれた。
大正・昭和にかけて活躍した竹久夢二、岩田専太郎、小村雪岱(せったい)らはその好例で、いずれも個性的な、しかも大衆の情感に直接訴える、わかりやすい表現形式を特色としている。

伊上凡骨
近代の機械印刷術が未熟な明治時代は、新聞、雑誌の挿絵は原画の複製木版画で、木版工あるいは彫師が彫版した。
凡骨はとくに腕のたつ彫師で、洋画家の水彩、素描のペンや色鉛筆、クレヨンなどの筆触、質感を彫刀で巧妙に表現し、名摺師の西村熊吉の協力を得て、原画に近いみごとな複製版画を作った。
菱川師宣
狩野派、土佐派など本格的な流派の画法を学び、寛文年間(1661‐73)興隆期の江戸の大衆出版界に身を投じて挿絵画家となった。
多くの無名の絵師と異なり、彼は1672年(寛文12)刊の絵入り本《武家百人一首》に江戸の挿絵画家としてはじめて署名を入れ、またしばしば大和絵師と自称して伝統的な大和絵の継承者を自認した。