カテゴリー: 骨董用語集

長崎派

長崎派 ( ながさきは )

江戸時代、長崎に興った絵画の諸派の総称。
外国から伝来した絵画の影響を受け、南蘋(なんぴん)派・南宗画派・北宗画派・洋画派など多様な展開をみた。

江戸時代に長崎を中心として特色ある絵画の発展を示した次の諸流派の総称。
(1) 隠元はじめ黄檗 (おうばく) 僧によって伝えられ、喜多元規,喜多宗雲らに受継がれた肖像画を特色とする黄檗派。
(2) 逸然 (いつねん) に始り河村若芝、渡辺秀石などに続く北宗画系漢画派。
(3) 沈南蘋 (しんなんぴん) によって伝えられ熊斐 (ゆうひ)、宋柴石、鶴亭、真村蘆江などによって栄えた写生的な花鳥画を得意とする南蘋派。
(4) 伊孚九 (いふきゅう)、江稼圃 (こうかほ) などの感化によって発達した木下逸雲、日高鉄翁、三浦梧門などの南画派。
(5) 舶載西洋画を模倣し西洋風俗などを写実的手法で描いた荒木如元、石崎融思、川原慶賀、若杉五十八などの洋風画派。
(6) 外国風物を主題とする綿絵を制作した長崎版画派など。
以上の各派は互いに緊密な交流を重ねながらそれぞれの特色を発揮し、江戸時代の画壇に多くの影響を及ぼした。

江戸時代長崎に興った多様な画派を総称していう。
当時外国文化と接触の多かった長崎では、中国や西洋の美術に刺激されて新傾向の絵画運動が次々と展開された。

江戸時代の長崎における諸画派の総称。
長崎は鎖国体制下における唯一の通商貿易港であったから、絵画などでも中国やオランダから新様式が流入した。
この特殊な港町にさまざまな画派が興ったのであり、そこに様式上の共通性が見られるわけではない。
それらはほぼ次のような流派に大別される。
(1)黄檗(おうばく)派は、黄檗宗の中国僧によって伝えられた写実的な高僧肖像画を学び、喜多元規らの肖像画家を生んだ(黄檗美術)。
(2)漢画派は、1644年(正保1)に来朝した黄檗僧逸然(1600か01‐68)を祖とし、河村若芝(1629か38‐1707)、渡辺秀石(1639‐1707)らが謹厳な北宗画風の絵を描き、秀石は唐絵目利職につくなど、長崎派の主流となった。

江戸時代、長崎で、外国の影響を受けて興った絵画の諸派の総称。
外国の新様式を取り入れ日本画に多大な影響を与えた。
その源となるものによって、黄檗おうばく派・南蘋なんぴん派・北宗画派・洋画派・南宗画派などがあった。

琳派

琳派 ( りんぱ )

江戸時代における絵画を主とする工芸、書などの装飾芸術の流派。
光琳派あるいは宗達光琳派ともいう。
俵屋宗達に始まる画風を尾形光琳が大成し、酒井抱一へと発展した。
絵画は技法、表現ともに伝統的なやまと絵を基盤とし、画面の豊かな装飾性が特色。
この派の作家としては宗達、光琳、本阿弥光悦、抱一のほか尾形乾山、深江芦舟、渡辺始興、立林何帠らがあげられる。

江戸時代の絵画の一流派。俵屋宗達・本阿弥光悦を祖として尾形光琳が大成し、酒井抱一などに受け継がれた。
鮮麗な色彩や金泥(きんでい)・銀泥を巧みに用いた装飾的な画風を特色とする。
宗達光琳派。光琳派。

桃山時代後期、京都に興った美術の流派。〈宗達光琳派〉ともいう。
本阿弥光悦と俵屋宗達が創始し、尾形光琳・尾形乾山によって大成。
絵画をはじめ書や工芸も含む総合性をもち、江戸時代を通して栄えた。

桃山時代後期に興り、近代まで続いた造形芸術上の流派。
宗達光琳派とも呼ばれ、本阿弥光悦と俵屋宗達が創始し、尾形光琳・乾山兄弟によって発展、酒井抱一、鈴木其一(きいつ)が江戸の地に定着させた。
その特質として
(1)基盤としてのやまと絵の伝統、
(2)豊饒な装飾性、
(3)絵画を中心として書や諸工芸をも包括する総合性、
(4)家系による継承ではなく私淑による断続的継承、などの点が挙げられる。 
刀剣の鑑定、磨砺(まれい)、浄拭を業とする上層町衆の家に生まれた光悦は、寛永三筆の一人に数えられる書家であり、陶芸や漆工の分野でもたぐいまれな作品を遺した。

四条派

四条派 ( しじょうは )

村松呉春は京都四条通に住したので、呉春、村松景文、岡本豊彦などの流派をこうよんでいます。
円山四条派と合わせてよぶこともありますが、円山派よりも技術と様式に軽妙さがあり、明治時代の日本画界に伝統を及ぼしています。

住吉派

住吉派 ( すみよしは )

土佐家の門人であった如慶が住吉家をたてたのに初まり、その子具慶が江戸幕府の御用絵師になって官画として公認され、家業を 世襲したので家系と画系と共に続いて流派となり、京都の土佐家と 並んで江戸地方の大和絵の元締となります。
その門人から板谷、粟田口 の二家が分立しました。
鎌倉時代の慶忍の画と家とをつぐ意味で住吉を姓としたのでしょうが、実際上では無関係です。

曹洞宗

曹洞宗 ( そうとうしゅう )

禅宗の一派。
中国の禅宗第六祖慧能の法系である洞山良价 (807~869) を祖とする。
中国禅宗五家七宗の一つ。
中国曹洞宗は、道元、東明、東陵の3派が日本へ伝わったが、13世天童如浄 (1163~1228) の法を入宋して伝えた道元派のみが栄え残った。
中国曹洞宗は,打坐を重視する黙照禅であったが、道元はさらに初祖達磨への復帰を志し、『正法眼蔵』を著わし、ひたすら坐禅する只管打坐を唱えた。法系は懐弉、義介、紹瑾と続き、臨済宗が上層階級に護持されたのに対し、一般庶民の間に教線を広げた。
福井の永平寺と神奈川の総持寺の2つの大本山をもち、全国に約1万 4000の末寺を擁している。

禅宗の一派。
鎌倉時代に道元が入宋して伝えた。
福井県の永平寺と神奈川県の総持寺とを大本山とする。
名は、中国で大成した洞山良价と弟子の曹山本寂によるといい、また禅宗六祖慧能(えのう)が説法した曹渓と洞山良价の活躍した洞山によるともいう。

禅宗の一派。
五家七宗の一つ。
黙照禅を主張する。
中国では慧能(えのう)が南宗禅を大成し、その法系に出た良价(りょうかい)〔807-869〕が洞山に住み、その法をひろめた。

中国禅宗五家七宗の一派。
日本では禅宗三派(曹洞、臨済、黄檗(おうばく))の一つ。
中国禅宗は菩提達磨より6代目の曹渓山宝林寺慧能(えのう)によって南宗禅として大成された。
この慧能の弟子の一人青原行思より、石頭希遷(きせん)―薬山惟儼(いげん)―雲巌曇晟(どんじよう)―洞山良价(りようかい)と伝わる洞山(807‐869)を派祖とする。
同じく慧能の弟子南岳懐譲(えじよう)の系統の臨済義玄を派祖とする臨済宗とともに、禅宗の二大主流となった。

土佐派

土佐派 ( とさは )

一般には土佐系図にのっている土佐家の歴代を中心としてその門弟によってつくられている流派を土佐派とよんでいます。
従って平安時代後期から江戸時代までの大和絵の中心的な流派とされ、むしろ大和絵はすべて土佐派であるように思われています。
しかし、この家系と画系と一致して土佐家が大和絵の中心的流派を形づくるのは室町時代初期の土佐行広からであり、宮廷画所を世襲するのもこの時代から後のことです。
従って土佐派が大和絵の中心になったのは、室町時代以降のことです。

狩野派

狩野派 ( かのうは )

室町中期から明治時代に及ぶ日本絵画史上最大の流派です。
画風はだいたい宋元画の影響で成立し、中ごろの装飾画の風を帯び、のち再び元に戻りました。
常に武家政権と結んで専門絵師としての正統を誇り、特に江戸時代には、探幽ら一族門弟が幕府や大名などの御用絵師となって伝統的な勢力をふるいましたが、安定した地位の世襲は伝統を墨守して陳腐に流れ、江戸中期からは芸術的な生命は反狩野派の諸派によって保持された感が強くあります。

日本美術院

日本美術院 ( にほんびじゅついん )

美術団体。
明治31年(1898)岡倉天心が橋本雅邦らと設立。
日本画の近代化を目ざして独自の道を開き、横山大観・下村観山・菱田春草(ひしだしゅんそう)らが輩出。
年2回の展覧会「院展」を開催。

在野の美術団体。
その展覧会を院展と略称。
1898年岡倉天心を中心に〈新時代における東洋美術の維持並に開発〉を主張して創立、明治日本画の先駆となり、特に横山大観、菱田春草の朦朧(もうろう)体は注目を浴びた。

美術団体。
1898年、東京美術学校校長を排斥されて辞職した岡倉天心を中心に創設され、天心とともに教職を辞した橋本雅邦をはじめ日本画家、彫刻家、工芸家など十数名が集った。
東京谷中初音町 (一時は茨城県五浦) に研究所を設けて美術研究と、院展と呼ぶ展覧会を開催、横山大観、下村観山、菱田春草などが力作を発表した。
また『日本美術』を発刊、在野派として明治末期の美術界に著しい業績をあげた。
その後経営困難、天心の渡米などで一時中絶、解消したが、1914年9月大観、観山に木村武山、今村紫紅、小杉放庵、安田靫彦 (ゆきひこ) らが加わって再興。
これを再興日本美術院と称したが、その後はまた日本美術院、院展と呼び現在にいたる。
その間 20年に洋画部、61年に彫刻部が解散して以来、日本画だけとなった。

日本芸術院賞

日本芸術院賞 ( にほんげいじゅついんしょう )

芸術上の功績が顕著な芸術家を優遇するための栄誉機関、日本芸術院が毎年授与する賞。
第1回目の実施は1941年。
日本芸術院の会員以外で、優れた芸術作品を制作した人、および明らかに芸術の進歩に貢献する業績がある人に贈られ、賞状、賞牌、賞金が出る。
毎年1月中に日本芸術院の会員が候補者を推薦し、やはり会員で構成される選考委員会でさらに選考が行われる。
選ばれるジャンルは日本画、舞踊、音楽、建築、彫塑、小説など幅広い。
第1回目の受賞者は洋画家の小磯良平。
この他、小説家の川端康成(1952年受賞)、井上靖(59年受賞)、日本画家の東山魁夷(56年受賞)、9代目松本幸四郎(79年受賞)など、著名な芸術家が数多く受賞している。

すぐれた業績を残した芸術家に対して、日本芸術院が毎年贈る賞。
昭和16年(1941)帝国芸術院賞として創設、昭和22年(1947)に改称。

日本芸術院

日本芸術院 ( にほんげいじゅついん )

美術、文芸、音楽、演劇などの芸術上の分野において功績顕著な芸術家を優遇顕彰するための栄誉機関で、文化庁の特別の機関。
1919年美術審査委員会を解消して設けられた帝国美術院を母体とし創設。
1937年に音楽、文芸、演劇、舞踊の分野を加えて帝国芸術院と改められ、さらに1947年日本芸術院となった。
第1部美術、第2部文芸、第3部音楽・演劇・舞踊の3部よりなり、会員の推薦と総会の承認により文部科学大臣が任命する終身会員120人で組織される。
毎年、芸術作品および芸術の進歩に貢献し顕著な業績ありと認められた者に対し、恩賜賞、日本芸術院賞が授与される。

芸術上の功績顕著な芸術家を優遇するための栄誉機関。
文化庁の所管。昭和22年(1947)帝国芸術院から現名に改称。
第一部美術、第二部文芸、第三部音楽・演劇・舞踊に分かれ、会員は終身で120名以内。
毎年、芸術に貢献した者に恩賜賞・日本芸術院賞を授与する。

芸術院と通称する。
功績顕著な芸術家を優遇するための栄誉機関。
文部省に付置。
1919年創設の帝国美術院(1937年帝国芸術院と改称)を母体にし1947年設置。
芸術に関する重要事項を審議し、文部大臣に建議する権限をもつ。