向井潤吉 買取

向井潤吉は戦争体験者で、戦火のなか失わていく古い草葺き屋根の民家の美しさに気付き終生民家を描いた。
民家の向井、と呼ばれ現地での制作を重視して、描かれた古民家は北海道から鹿児島まで1500点に及ぶ。

日本一、歴史ある京都祇園骨董街にあります。

京都は千年も続いた都です。
京都祇園骨董街の中でも当店は、歴史的保全地区に指定されています。
約80軒の古美術骨董商が軒を連ねる、
日本でもトップの祇園骨董街にある老舗の骨董店です。

京都祇園で小売販売している老舗骨董店だからこそ高価買取出来るのです。

世界各国から1日100名近くのお客様がご来店頂いております。
店頭には買取商品を常時2000点以上展示販売しており、愛好家やコレクターの方が品物の入荷をお待ちです。

買取依頼のお客様に納得して頂くことを第一と考えております。

ホームページや店頭にて販売する価格を提示して、買取りさせて頂いております。
是非、ご来店頂くか、ホームページをご覧下さい。
京都祇園で昭和56年に開業、長年の信頼と実績があります。

京都美術倶楽部大阪美術倶楽部鴨東古美術会京都古書組合東京古書組合に加盟しております。

向井潤吉の作品ー査定・買取ポイントのアドバイス

向井 潤吉(むかい じゅんきち)・特徴と技法

1901年(明治34)~1995年(平成7)93才没。

1901年(明治34年)京都市下京区の宮大工の家柄に長男として生まれました。
最初は 日本画 を学ぼうと、京都市立美術工芸学校 予科に入学しかし、1916年(大正5年)在学中に油彩画に強い興味をいだき中退し、関西美術院に入学。1919年(大正8年)二科会第6回展に初入選。卒業後、翌年家に無断で上京、半年ほど新聞販売店に住み込み川端画学校に通う。同年第7回 二科展 に「八月の鉢」が入選。貧乏の画学生の潤吉は、安い経路だったシベリア鉄道で渡欧し、午前中はルーブル美術館で 模写、夜はパリのアカデミー・ドラ・グラン・ショーミエールで学び、1928年 サロン・ドートンヌに出品。1930年帰国し同年結婚、二科展 に渡欧中に制作した11点を特別出品し、樗牛賞を受賞 。世田谷区弦巻に1933年(昭和8年) アトリエ 兼住居を構え、亡くなるまで同地に住み続けました。陸軍報道班員として、1937年(昭和12年)頃より、戦争記録画の制作に従事します。中国の天津、北京、大同方面また、フィリピンに赴き、1944年(昭和19年)帰国。戦火のなか民家の美しさに気付き、終戦後の1945年(昭和20年)行動美術協会を創立しました。同年、新潟県川口村の作品「雨」を制作、以後生涯の主題として草屋根の民家を描き続ける。以後行動展を中心に「向井潤吉還流展」「向井潤吉民家展」世田谷美術館で「向井潤吉展」と活躍する。自宅兼 アトリエ とともに300余点の作品を世田谷区に1992年(平成4年)に寄贈したのを受け、世田谷美術館内に向井潤吉アトリエ館が設置された。1995年 93歳で死去しました。

戦前は二科会で活動し、戦時中は作戦記録画を制作、戦後は行動美術協会を結成し、常に 洋画 壇の中心で活躍しました。
晩年はアトリエではなく常に現地で制作し、誇張のない的確な 写実 表現で、民家のありのままの姿や、日本の風土の美を描き出しました。40年以上の生涯にわたり日本全国を旅し、失われゆく民家にその半生を捧げ、油彩による民家作品は2000点にも及ぶとされる。

向井潤吉の作品  画風と買取価格のワンポイント

古い草葺き屋根の民家の絵を描き続け「民家の向井」と呼ばれ、このような逸品が高価買取対象です。
いかにも潤吉らしい民家作品としての作風が確立するのは昭和30年代に入ってからの作品が人気です。

その土地の気候、風土、人々の暮らしが作り上げてきた民家のかたちを 写実的 にとらえ、失われていく景観を描きとどめ、アトリエ で完成させる方法をとらず、現地での制作を重視した。古い草葺き屋根の民家の絵を描き続け「民家の向井」と呼ばれました。
絵画は簡単な作品から時間をかけた力作があり、また 図柄 や種類によって買取価格は変動します。
若年 の作品よりも、独自の境地を築いた晩年の 逸品 が高価買取対象です。
代表作品には「坑底の人々」「海」「聚落」「峠の下の村」「岳麓好日」等々、多くの作品があります。

 

 
略歴
1901年(明治34年)京都市下京区の東本願寺の建築にも関わった、宮大工の家柄に生まれた。
1914年(大正 3 年)京都市立美術工芸学校 予科に入学する。
1916年(大正 5 年)父の反対を押し切って中退。関西美術院に入り、4年間学ぶ。
1920年(大正 9 年)家に無断で上京、新聞配達で働きながら川端画学校に通うが、年内には再び京都に戻る。
1927年(昭和 2 年)貧乏学生ですが、フランスへ留学。
1930年(昭和 5 年)に帰国し、二科会に渡欧中に制作したフォーヴィスム調の作品11点を出品、樗牛賞を受ける。
1933年(昭和 8 年)東京都世田谷区弦巻に転居し、以後没年まで居住する。
1937年(昭和12年)中国の天津、北京、大同方面に従軍。
1938年(昭和13年)大日本陸軍従軍画家協会が設立されると、潤吉も会員となり戦争画を描く。
1944年(昭和19年)インパール作戦に同作品を記録する手にとった図録から民家の美しさに気付く。
1945年(昭和20年)終戦後の11月、行動美術協会を設立。以後生涯の主題として草屋根の民家を描き続ける。
昭和30年代に入って、潤吉らしい民家作品としての 作風 を確立させた。
1993年(平成 5 年)5月、世田谷区に自宅を兼ねたアトリエ、所蔵の作品を寄贈する。向井潤吉アトリエ館が開館。
1995年(平成 7 年)自宅で死去。93歳。アトリエ館にて「お別れの会」を開催した。
 

 

向井潤吉の作品をお持ちのお客様、お気軽にご相談ください。

額装 の場合は、確実な判定材料にはなりませんが、買われた 画廊 のシールも大切な物となる場合があります。
一般的には、キャンバス の裏側に題名と作家直筆のサインが書かれており、大切な真贋の 鑑定 材料となります。

シミや汚れがある場合でも、現状のままお持ちください。

油彩の場合、画面上の汚れやヒビ、割れなどがないかを見させていただき、また制作年代や画風によっても買取価格に差が出てきます。
状態が悪い場合は修復が必要となる場合もありますが、当店で修復しますので、現状のままお持ちください。

鑑定書の有無に関わらず、まず当店で無料の 真贋 の判断やアドバイスをさせて頂きますので、お電話でご相談ください。
一般的に絵画の 鑑定 は、美術俱楽部やそれぞれの指定された 鑑定機関 で行われており、その場合、真贋を問うだけで、約3万円~5万円かかり、有料です。

【所定鑑定人・鑑定機関

浜田美芽
住所 〒154-0016
東京都世田谷区弦巻2丁目5番1号(向井潤吉アトリエ館)
電話番号
03-5450-9581

当店では高額な作品も扱っております、一例ですがご覧ください。
お買取りさせて頂いた作品は価格を表示してホームページや店頭で販売しています。

向井潤吉をはじめ買取させていただいた作家の作品も数多くあります、是非ご覧ください。

当店には向井潤吉の愛好家やコレクターのお客様もおられ、新しい作品の入荷をお待ちです。
向井潤吉の作品をお持ちのお客様は、お気軽にご相談頂ければ適切なアドバイスをさせて頂きますので、是非お問い合わせ下さい。

古美術やかたの店内写真

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買取は古美術やかたへ!老舗骨董店ならではの6つの技

 

向井 潤吉 略歴

明治34年(1901)に、京都市下京区仏光寺通柳馬場西入東前町406番地に生まれる。
生家は代々宮大工に 従事 し、潤吉の父才吉は東本願寺の建築にもたずさわったほか、職人を抱えて輸出向け刺繍屛風や衝立の制作をも行っていた。大正3(1914)年、京都市立美術工芸学校 予科に入学はするものの、在学中に油絵を描きたいという強い思いをいだき、京都市立美術工芸学校を中退。画業を手伝いながら関西美術院に学ぶ。沢部清五郎、都鳥英喜に師事。大正8年関西美術院での友人たちと麗日会を開催。また同じ大正8年第6回 二科展 に「室隅にて」で初入選する。大正9年5月に上京して新聞販売店に住み込み、新聞配達の仕事をしながら川端画学校に通う。同じ大正9年、第7回 二科展 に「八月の鉢」が入選。この年京都に帰り、翌年大正10年の春、大阪高島屋呉服店図案部に勤務し始める。同じ年の12月京都の歩兵第38連隊に入営するが2ヶ月で除隊し、再び高島屋に勤務する。
翌大正15年第13回二科展に6年ぶりに「葱の花」を出品して入選し、本格的に 画家 を志した。

昭和2年(1927)秋、シベリア経由で渡欧し、滞欧中にはドイツ・イタリア・スペイン・オランダなどを訪ねている。
アカデミー・ドラ・グラン・ショーミエールに通い、貧乏生活を送りながらもルーブル美術館に向かい 模写 に励む。
この頃は、荒々しいフォービスムを描いているような 作風 を多く残している。
その後、フランスの絵画に影響された 作風 へと変化していく。翌昭和3年サロン・ドオトンヌに出品する。
昭和5年1月帰国。帰国の年、京都大毎会館で 個展 を開いたほか、東京、大阪、京都の画廊でも個展を開催。
昭和5年の第17回二科展に「力土達」等11点を特別出品し樗牛賞を受賞、昭和8年同会会友、昭和11年会員に推挙される。
昭和12年秋中国に個人の資格で従軍し、翌昭和13年5月中村研一らと上海に赴き上海軍報道部の委嘱により記録画を作成する。
昭和13年大日本陸軍従軍 画家 協会設立とともに同会会員となり、昭和14年陸軍美術協会の結成に伴い同会会員となる。
昭和15年紀元2600年奉祝展に「黄昏」を出品し、昭和15年、昭和洋画 奨励賞受賞する。昭和16年二科会 評議員 となる。
また昭和16年、国民徴用令により報道班員としてフィリピンに赴く。昭和18年ビルマ方面に従軍して中国の蘇州などの戦争画を描き、非常に 写実的作風 になり、高い評価を得た。昭和19年8月に帰国する。

戦中に日本の民家の図録を見てその美に注目し、終戦後は民家を描き続けようと志し、昭和20年秋に新潟県川口村をモチーフとした「雨」を制作して以後、終生民家を描いた。終戦まもなく再興した二科会には参加せず、行動美術協会を結成してその創立会員となる。
以後行動展を中心に、日本国際美術展、現代日本美術展、日本秀作美術展などにも出品。
昭和34年再度渡欧し10ヶ月ほど滞在。昭和41年訪中日本美術家代表団の一員として訪中し北京、上海、蘇州などを訪ねる。
昭和49年3月京都府立文化芸術会館で民家を描いた作品約50点による自選展を聞いたほか、5月には東京銀座のセントラル美術館において初期からの画業を90点でふりかえる「向井潤吉還流展」を開催。翌年の昭和50年横浜高島屋で「向井潤吉民家展」を開催し70余点を展示する。昭和8年から世田谷区弦巻町に居住し、昭和57年には、世田谷区の名誉区民となった。昭和61年世田谷美術館において「向井潤吉展」を開催。平成4年自宅兼 アトリエ とともに300余点の作品を世田谷区に寄贈したのを受け、世田谷美術館内に向井潤吉アトリエ館が設置された。同じ平成4年「向井潤吉アトリエ館開館記念展 郷愁と輝き・向井潤吉と民家」が開かれている。
その土地の気候、風土、人々の暮らしが作り上げてきた民家のかたちを 写実 的にとらえ、失われていく景観を描きとどめた。
東京都世田谷区弦巻の自宅で急性肺炎のため死亡した。享年93。

スケッチ によってアトリエで完成させる方法をとらず、つねに現場におもむき、現地での制作を重視した。
40年以上に渡って北海道と鹿児島を旅をして過ごし、描かれた民家は2000点を越えるとも言われている。特に埼玉県の民家を多く描いた。類まれな 写実 力で、郷愁を誘うような、温和な情緒溢れる作品は高く評価されている。日本の郷土の味わい深い風景を巧みに描き、数々の賞を 受賞 した。平成5年(1993)5月には、世田谷区に自宅を兼ねた アトリエ、所蔵の作品を寄贈し、世田谷美術館の分館として向井潤吉アトリエ館が開館するなど美術界にも貢献した。「民家を描く 画家」として知られている。

向井 潤吉の主な出来事や作品の年表

1901年(明治34年)京都市下京区仏光寺通に父・才吉と母・津禰の長男として生まれる。
父は東本願寺の建築にも関わった宮大工の家柄である。10人近い職人を雇い輸出向けの刺繍 屏風 や衝立を製造していた。
1914年(大正 3 年)父と日本画を学ぶことを約束し、京都市立美術工芸学校予科に入学する。
1916年(大正 5 年)しかしながら、やはり油絵が描きたくて父の反対を押し切って中退。
家業を手伝いながらという条件で関西美術院に入り、4年間学ぶ。
1919年(大正 8 年)二科会第6回展に初入選。
1920年(大正 9 年)家に無断で上京、半年ほど新聞配達で働きながら川端画学校に通うが、年内には再び京都に戻る。
1927年(昭和 2 年)当時最も安い経路だったシベリア鉄道を使いフランスへ向かう。
滞仏中は、午前中はルーブル美術館で 模写、午後は自由制作、夜はアカデミー・ド・ラ・ショーミエールで素描をおこなうのが日課であった。ヴェネツィア派からバロック絵画にかけての作品、コローの作品などの多くを模写した。
一方、スーティンやココシュカを想起させる荒々しい筆触の作品も描いており、フォーヴィスムへの接近を色濃く感じさせる。
1930年(昭和 5 年)に帰国し、模写の展覧会を開く。
また、二科会に渡欧中に制作したフォーヴィスム調の作品11点を出品、樗牛賞を受ける。
1933年(昭和 8 年)東京都世田谷区弦巻に転居し、以後没年まで居住する。
1937年(昭和12年)中国の天津、北京、大同方面に従軍。
1938年(昭和13年)大日本陸軍従軍画家協会が設立されると、潤吉も会員となり戦争画を描く。
1944年(昭和19年)インパール作戦に同作品を記録するため作家・火野葦平と共に従軍。
2人は協力して危険をくぐり抜けビルマまで戻っている。帰国後は軍需生産美術推進隊隊員として、各地の炭坑で制作を続けた。戦争末期、ふと手にとった図録から民家の美しさに気付き、戦火のなか失われようとする美しいものを絵に残したいという思いを強くもった。
1945年(昭和20年)終戦後の11月、行動美術協会を設立。
1945年(昭和20年)新潟県川口村で取材した作品「雨」(個人蔵)を制作。以後生涯の主題として草屋根の民家を描き続ける。
昭和30年代に入って、潤吉らしい民家作品としての 作風 を確立させた。
1993年(平成 5 年)5月、世田谷区に自宅を兼ねたアトリエ、所蔵の作品を寄贈する。
7月には、世田谷美術館の分館として向井潤吉 アトリエ 館が開館する。
1995年(平成 7 年)自宅で死去。93歳。アトリエ館にて「お別れの会」を開催した。

戦後の高度経済成長により次第に 伝統 的家屋が失われていくなか、全国を巡り古い藁葺き屋根の家屋を描き続けた。
描き残した民家は1000軒を超え、油彩による民家作品は2000点にも及ぶとされている。
「民家を描くためには、繁茂した木や草が邪魔になるからであるとともに、緑という色彩が自ら不得手だと知っているからでもある」と述べており、冬季に作成した作品が多い。また、制作場所は埼玉県の風景が最も多い。
今後、評価が高まるであろう 画家 の一人として注目されている。

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