横山操 買取

終生のライバル、加山又造と真逆の日本画、横山操の独自の世界を創設して、共に後進の指導に尽力しました。
横山操の作風は、大胆かつ豪放で、力強く轟くような漆黒の世界に、にじみ出てくるような鮮やかな色合い特徴。
横山操と言えば「赤富士」が一番の人気で、展覧会出品作品では、数百万円の買取価格の名品もあります。

日本一、歴史ある京都祇園骨董街にあります。

京都は千年も続いた都です。
京都祇園骨董街の中でも当店は、歴史的保全地区に指定されています。
約80軒の古美術骨董商が軒を連ねる、
日本でもトップの祇園骨董街にある老舗の骨董店です。

京都祇園で小売販売している老舗骨董店だからこそ高価買取出来るのです。

世界各国から1日100名近くのお客様がご来店頂いております。
店頭には買取商品を常時2000点以上展示販売しており、愛好家やコレクターの方が品物の入荷をお待ちです。

買取依頼のお客様に納得して頂くことを第一と考えております。

ホームページや店頭にて販売する価格を提示して、買取りさせて頂いております。
是非、ご来店頂くか、ホームページをご覧下さい。
京都祇園で昭和56年に開業、長年の信頼と実績があります。

京都美術倶楽部大阪美術倶楽部鴨東古美術会京都古書組合東京古書組合に加盟しております。

横山操の作品ー査定・買取ポイントのアドバイス

横山操(よこやま みさお)・特徴と技法

暁富士

1920年(大正9)~1973年(昭和48)53才没。
 
5年生のころに父から油絵具を買ってもらい、絵をえがきはじめ、川端画学校に入学し、川端龍子を代表とする青龍社主催の青龍展で入選するも、徴兵召集で、シベリア抑留され強制労働を強いられ、戦後帰国してからは画業を再開する。
1960年頃からの作品が人気で、多摩美術大学 日本画 科の教授に就任した加山又造と共に後進の指導に尽力しますが、加山又造とは、正反対の 作風 で、彼を終生のライバルとして認めお互い努力して日本 画壇 を牽引してきました。
横山操は、大胆かつ豪放な大作の作品を描いたことで知られています。
黒を強調した線で画面の縦横に描かれ、煤や石灰などを画面に擦り付け、力強く轟くような漆黒と、そこからにじみ出てくるような鮮やかな色が特徴的です。
川端龍子の影響を強く受け大胆かつ豪放な大作の作品を描いたことで知られています。
晩年は病に倒れながらも左手で筆をとり、繊細 で叙情溢れる色彩豊かな作品や水墨画などを発表しました。
しかし、やはり人気は「赤富士」で横山操と言えば「赤富士」が一番の人気です。
 
1920年(大正9)新潟県西蒲原郡吉田町(現在の燕市)に生まれました。
1939年(昭和14)19歳で上京し、川端画学校 日本画 家で学び始めました。
1940年(昭和15)青龍社展で「渡舟場」が初入選します。
この年に入隊し、終戦までの5年間を中国で過ごし、さらに戦後5年間はシベリア抑留生活を強いられました。
復員後は青竜展に戻り、作品を発表しました。
1956年(昭和31)「炎炎桜島」で青龍賞を 受賞 しました。
1960年(昭和35)頃から精力的に富士を描き始め「赤富士」の連作が人気を集めだしました。
1962年(昭和37)には、日本画の新たな表現を目指し青竜社を脱退、無所属となりました。
これ以降は日本の伝統的水墨画の発展に意欲を示し、「瀟湘八景」「越後十景」などの 逸品 を残しました。
1965年(昭和40)加山又造と共に多摩美術大学日本画科の 教授 に就任し、後進の指導に尽力しました。
1971年(昭和46)に病に倒れ右半身不随となりますが、左手のみで制作を続けました。
1973年(昭和48)53歳で死去しました。
 
戦前は、川端龍子が主催した青龍社で発表活動を続け、大きく迫力をもった熱気あふれる激しい作品を多く発表しました。
戦後は、加山又造や石本正らと轟会に参加し、優美な装飾性と 繊細 な叙情性をあわせもつ 画風 になっていきました。
故郷の越後風景や富士のモチーフを繰り返し描いたことで知られています。
 

横山操の作品  画風と買取価格のワンポイント

見た目には洋画に近い作風で、力強く轟くような漆黒と、にじみ出てくるような鮮やかな色の逸品が人気です。
作風は煤や石灰などを画面に擦り付けた、やはり「赤富士」が人気で百万円を超える買取価格の名品もあります。

やはり時代的には 晩年全盛期 の作品が人気で、高価買取させて頂けます。
横山操の場合も、若書き の作品よりも、晩年の作品が高価買取対象です。
 

 

 

横山操の作品をお持ちのお客様、お気軽にご相談ください。

掛軸 の場合は、購入された時から入っている箱(共箱)は大切な箱で、共箱には横山操の自筆のサインと 落款 が押されています。
共箱は、保証書も兼ねており、有る・無しで、買取価格は大きく変動します。
額装 の場合は、共シール が大切な評価基準になります。
共シールとは、一般的に、名刺大で、作品の裏側に貼られており、横山操の直筆のサインと題名が書かれ、落款が押されています。
 
シミや汚れがある場合でも、現状のままお持ちください。
 
鑑定書 の有無に関わらず、まず当店で無料の 真贋 の判断やアドバイスをさせて頂きますので、お電話でご相談ください。
一般的に絵画の 鑑定 は、美術俱楽部やそれぞれの指定された 鑑定機関 で行われており、その場合、真贋を問うだけで、約3万円~5万円かかり、有料です。
 
【所定鑑定人・鑑定機関

東京美術倶楽部鑑定委員会

当店では高額な作品も扱っております、一例ですがご覧ください。
お買取りさせて頂いた作品は価格を表示してホームページや店頭で販売しています。

横山操をはじめ買取させていただいた作家の作品も数多くあります、是非ご覧ください。

当店には横山操の愛好家やコレクターのお客様もおられ、新しい作品の入荷をお待ちです。
横山操の作品をお持ちのお客様は、お気軽にご相談頂ければ適切なアドバイスをさせて頂きますので、是非お問い合わせ下さい。

古美術やかたの店内写真

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横山操 略歴

新潟県燕市(旧吉田町)出身の日本画家。大正9年新潟県西蒲原郡に生れた。14歳で上京し、はじめは洋画家を志すも、その後 日本画 へ転向。
川端画学校日本画科に学んだ。昭和15年、20歳で川端龍子が主宰する 日本画 団体・青龍社の第12回展に「渡船場」を出品、初入選した。この年召集され、終戦までの5年間中国各地を一兵卒として歩いた。戦後さらに5年間のシベリアで捕虜生活を経て、昭和25年、30歳で帰国する。再び青龍社に所属し、意欲的で大胆かつ豪放な大作、「塔」「熔鉱炉」「炎々桜島」などを発表、後に続く作家たちに大きな影響を与えた。「炎々桜島」では青竜賞となるなど青龍社で受賞を重ね社人となり、将来を嘱望された。彼の作品の特色であるブラックを強調した線を、画面に縦横に駆使した激烈な作風は、画壇 に一時爆発的ブームを引きおこした。

一方で、このような傾向に対する批判もあり、昭和37年に青竜社を脱退、無所属となった。
以後、日本の 伝統 的水墨画の発展に意欲を示し、「瀟湘八景」「越後十景」等の作品を生み出した。
晩年 は、昭和46年に発病し、半身不随となったが、左手で筆をとり 繊細 で叙情溢れる色彩豊かな作品や水墨画など意欲に満ちた作品を発表し続けた。左手で制作した作品に「武蔵野風景」がある。

戦後、伝統 的で因襲的な日本画の世界は多大な批判を受け否定されたが、そのなかで、横山操は「日本画」の存在を強く確信し、描き続けた。黒い色を 基調に豪放な筆致と大胆な 構図 による、現代感覚あふれる新鮮でダイナミック な作品を次々と発表し、一大ブームを引きおこした。戦後の日本画 画壇 においてひときわ個性的な存在で、戦後の日本画壇の風雲児と称され活躍した。

横山操の主な出来事や作品の年表

1920年 新潟県西蒲原郡吉田町(現在の燕市)に町医者の私生児として生まれる。その後、横山家に養子に出される。
1934年 洋画家を志し上京し、洋画家の 弟子 となる。ポスターや看板描きなどで生活を立てながら洋画を学ぶ。
1938年 第25回光風会展に油彩画の「街裏」が入選する。その後、師の勧めにより 日本画 に転向する。
1939年 川端画学校日本画部の夜間部に入学する。
1940年 当時もっとも新表現に先取的存在であったとされる青龍社主催する第12会青龍展に「隅田河岸」が初入選する。
青龍社は、川端龍子が中心的人物の会。しかし、その後徴兵、召集される。
1945年  シベリア抑留に遭う。
カザフスタン辺りで石炭採掘の工員として強制労働をし、そのときの情景や想いなどが、後の横山の 作風 に影響されたと言われている。
「カザフスタンの女」が当時の印象を色濃く残している作品である。
1950年 復員し、帰国し、戦争で中断していた制作を再開する。
1951年 杉田基子と結婚する。
1956年 初の 個展 を銀座で開催する。「炎炎桜島」で青龍賞を受賞する。
1957年 東京都台東区谷中の五重塔が放火、炎上。消失後のその様子を描いた作品が「塔」。
1960年 自らの作品を焼却する。この頃から「赤富士」の連作が人々の人気を集め、一躍有名 画家 となる。
1962年 日本画の新たな表現を目指し、青龍社を脱退する。
1963年 これまでとは違う新生横山としての第一回 個展「越後風景展」を開催する。
1966年 多摩美術大学 日本画科 の教授に就任し、多くの日本画家を育てる。
そのときに「被害者になるな、加害者になれ」という自らの生き様を彷彿とさせるような言葉で指導し、また、生徒達に人望があったと伝わっている。
1971年 晩年に脳卒中で倒れ右半身不随となる。回復後は左手で制作を続けた。
1973年 新作の制作途中に死去、享年53。

見た目には 洋画 に近い 作風
煤や石灰などを画面に擦り付け、力強く轟くような漆黒と、そこからにじみ出てくるような鮮やかな色が特徴である。
日本画 の王道を歩んだともいえる加山とは、お互いを認め合いライバルとして日本 画壇 をリードしてきた。

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買取実績 PURCHASE RECORD

老舗骨董店の当店ならでは1000点以上の買取実績を写真入りでご覧ください。

中国美術の昔の玉で出来た湯冷ましを茶道具出張買取依頼を頂き、お譲り頂きました。

写真が13枚あります。くわしくはこちら 中国 骨董品 の湯冷ましで、時代は清朝時代の作品だと思われます。可愛いモチーフで、丁寧に彫られた昔の 職人技 が光る湯冷ましで、色味 も素晴らしい 逸品 で買取ました。採光の加減で白く光っておりますが、ご覧のように 保存状態 の良い品物で、傷んでいるところはありません。ご覧のように細部まで丁寧に作られており、非常に出来の良い作品で高価買取させて頂きました。この作品は、競り市やオークションで買い受けた作品ではありません。直接お客様より入荷した、うぶ荷と呼ばれる貴重な蔵出しの作品で、現状のまま販売しております。 湯冷ましについて少し説明します。 お茶に使用する湯を冷ますための茶器で、湯の温度を効率良く下げるため底より口の方が大きく作られています。日本独特のお茶である玉露は60℃前後が適温ですが、ティーポットややかんで沸かしたてのお湯は熱いので、美味しくお茶を頂くのに方法として湯冷ましが作られました。湯冷ましは日本独特のお茶の玉露を最高の状態で美味しく飲む道具として作られ、日本が考えた独自の茶道具です。

 

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