会津八一 買取

会津八一は、総ひらがなの万葉調和歌や独特の書で有名です。
自作の短歌の世界観をより強く表現をした素晴らしい書画墨蹟は、高価買取いたします。
伸びやかで趣のある会津八一の独創的な書画墨蹟は、高価買取いたします。

日本一、歴史ある京都祇園骨董街にあります。

京都は千年も続いた都です。
京都祇園骨董街の中でも当店は、歴史的保全地区に指定されています。
約80軒の古美術骨董商が軒を連ねる、
日本でもトップの祇園骨董街にある老舗の骨董店です。

京都祇園で小売販売している老舗骨董店だからこそ高価買取出来るのです。

世界各国から1日100名近くのお客様がご来店頂いております。
店頭には買取商品を常時2000点以上展示販売しており、愛好家やコレクターの方が品物の入荷をお待ちです。

買取依頼のお客様に納得して頂くことを第一と考えております。

ホームページや店頭にて販売する価格を提示して、買取りさせて頂いております。
是非、ご来店頂くか、ホームページをご覧下さい。
京都祇園で昭和56年に開業、長年の信頼と実績があります。

京都美術倶楽部大阪美術倶楽部鴨東古美術会京都古書組合東京古書組合に加盟しております。

会津八一の作品ー査定・買取ポイントのアドバイス

会津八一(あいづ やいち)・特徴と技法

明治14年(1881)~昭和31年(1956)75才没。

新潟県出身の歌人で美術史家、書家です。
は、秋艸道人、渾斎。
万葉調を基調とし、近代感覚を歌い上げた独自な歌風を樹立しました。
奈良の古美術などを主題にした総ひらがなの万葉調和歌や、独特の書で有名です。
孤高の歌人と言われ、その独自の歌風は高く評価されています。
短冊 に俳諧を記すことをきっかけに書道を始め、独創的な書に徹し独自の書法を確立しました。
新潟市に生まれで、中学生のころより「万葉集」や良寛の歌に親しみ、多くの俳句や俳論を残しています。
早稲田大学在学中には坪内逍遙や小泉八雲らの講義を聴講し、師事 しました。
1906年、早稲田大学英文科卒業。
1908年、奈良旅行をきっかけに奈良の 仏教美術 へ関心を持ちます。
また、俳句から短歌への関心を高め、古都奈良の美術を短歌で表現しました。
古都奈良への関心が生み出した歌集「南京新唱」にその後の作歌を加えた「鹿鳴集」があります。
奈良の仏像は八一の歌なしには語れないと高い評価を得ています。
他にも故郷の新潟や草花を詠んだ短歌も多数残されています。
1906年早稲田大学英文科を卒業。
1910年から1945年まで早稲田中学及び早稲田大学で教鞭をとりました。
そこで中村屋創業者の相馬夫妻の長男安雄を教え子に持ち、中村屋創業者との縁が生まれました。
今でも中村屋には八一が揮毫した看板や包装紙などが残されています。
1933年、独学 で学んだ東洋美術史、仏教美術 史研究をまとめた「法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究」(東洋文庫)が刊行。
1934年、この研究で文学博士の学位を受けました。
1940年には歌集「鹿鳴集」、1941年に書画図録「渾齋近墨」、1944年には歌集「山光集」と次々に刊行し、「會津八一全歌集」では読売文学賞を受賞しました。
1934年に文学博士、1948年に早稲田大 名誉教授
1951年に新潟市 名誉市民 となりました。
妥協を許さぬ人柄から孤高の学者として知られています。
生涯独身で通し、慕う 弟子 達を厳しく導き、多くの人材を育てました。

会津八一の作品  作風と買取価格のワンポイント

会津八一は、万葉調を近代化した独自の歌風や芳醇で独特な墨筆で高く評価されています。
骨格が強く明快で、良寛にも似たおおらかさがある漢字の書は、高価買取対象です。
自作の短歌の世界観をより強く表現をした素晴らしい書画墨蹟は、高価買取いたします。

絵画は簡単な作品から時間をかけた力作があり、また 図柄 や種類によって買取価格は変動します。
会津八一の場合も、若年 の作品よりも、独自の境地を築いた晩年名品 が高価買取対象です。

 

 

 

会津八一の作品をお持ちのお客様、お気軽にご相談ください。

会津八一の作品の場合は、購入された時から入っている箱(共箱)は大切な箱で、共箱には会津八一の自筆のサインと 落款 が押されています。共箱は、保証書も兼ねており、有る・無しで、買取価格は大きく変動します。

汚れや傷みがある場合でも、現状のままお持ちください。

鑑定証 の有無に関わらず、まず当店で無料の 真贋 の判断やアドバイスをさせて頂きますので、お電話でご相談ください。一般的に 絵画 の 鑑定 は、美術俱楽部やそれぞれの指定された 鑑定機関 で行われており、その場合、真贋を問うだけで、約3万円~5万円かかり、有料です。

【所定鑑定人・鑑定機関

会津八一記念館

住所
〒950-0088 新潟市中央区万代3-1-1
電話番号
025-282-7612

当店では高額な作品も扱っております、一例ですがご覧ください。
お買取りさせて頂いた作品は価格を表示してホームページや店頭で販売しています。

会津八一をはじめ買取させていただいた作家の作品も数多くあります、是非ご覧ください。

当店には会津八一の愛好家やコレクターのお客様もおられ、新しい作品の入荷をお待ちです。
会津八一の作品をお持ちのお客様は、お気軽にご相談頂ければ、適切なアドバイスをさせて頂きますので、是非お問い合わせ下さい。

古美術やかたの店内写真

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買取は古美術やかたへ!老舗骨董店ならではの6つの技

 

会津八一 略歴

1881年、新潟県新潟市屈指の料亭・會津屋の次男として生まれる。
雅号は、秋艸道人、渾斎で、弟子には歌人、書家、文人墨客の吉野秀雄がいる。
中学生のころより「万葉集」や良寛の歌、俳句などに親しむ。
早熟の天才ぶりを発揮し、中学時代すでに新聞俳壇の選者になる。
また、当時北陸旅行中の尾崎紅葉の話相手をつとめたりもしている。
さらにまだ評価の定まっていなかった良寛和尚の芸術をいちはやく認めて正岡子規に知らせたりした。
坪内逍遙や小泉八雲らの講義を聴講し、1906年、早稲田大学英文科卒業。
以後、1910年から1945年まで早稲田中学及び早稲田大学で教鞭をとった。
1908年、奈良旅行をきっかけに奈良の 仏教美術 へ関心を持ち、またこの旅行が俳句から短歌へと移るきっかけとなり、古都奈良の美術を短歌で表現した。
他にも故郷の新潟や草花を詠んだ短歌も多数ある。
仏教美術 史研究をまとめた「法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究」(東洋文庫、1933年)で学位を受け、1934年文学博士になる。
1910年から1945年まで早稲田中学及び早稲田大学で教鞭をとった。
そこで中村屋創業者の相馬夫妻の長男安雄を教え子に持ち、中村屋創業者との縁が生まれた。
2代目社長に就任した安雄は、八一を親のように慕い、菓子 などの揮毫を依頼した。
今でも中村屋には「黒光庵」「那可無楽也」などの看板や、茶器、煉羊羹の包装紙などに八一の書が残されている。
和洋菓子などの老舗中村屋との強い結びつき、陰ながら老舗の精神的支柱だったことがうかがわれる。
実際に店内に掲げられていた「中村屋」の看板も八一が揮毫したものがある。
ややアンバランスながら力強い字で、1949年春、中村屋で書画個展 を開いたお礼に書かれたもの。
その他にも、数多くの故郷新潟の老舗創業店や新潟日報などの題字や看板などを手掛けている。
日展 への出品を拒否して同時期に中村屋で 個展 を開くなど、歌壇や書壇とは距離を置いて活動した気概や教育者としての魅力が感じられるエピソードである。
1935年、早稲田大学文学部に芸術学専攻科が設置されると同時に、主任 教授 に就任した。
1948年には早稲田大 名誉教授 となる。
妥協を許さぬ人柄から孤高の学者として知られる。
1940年には歌集「鹿鳴集」、1941年に 書画 図録「渾齋近墨」また、1942年に随筆集「渾齋随筆」1944年には歌集「山光集」と次々に刊行し、
「會津八一全歌集」では読売文学賞を受賞した。
書においては、古代の中国文字から現代の文字までを研究し、自ら独自の書を築く。
個性的でわかりやすかったため、独住の書家と呼ばれた。
1946年晩年に新潟市に帰り、「夕刊ニイガタ」社長、「新潟日報」社賓となる。
故郷の新潟県には、会津八一の調査研究を市民に伝え教育に役立てる事を目的とした「新潟市会津八一記念館」がある。
1951年、新潟市 名誉市民 に推挙される。
1956年11月21日、冠状動脈硬化症により逝去、享年75歳。

会津八一の主な出来事や作品の年表

明治14年(1881)新潟市屈指の料亭・會津屋の次男として生まれる。
明治20年(1887)新潟市西堀小学校に入学。
明治28年(1895)新潟県尋常中学校(現・県立新潟高等学校)入学。
明治32年(1899)早春から俳句を始め、万葉集や良寛らの歌を愛読。来遊した尾崎紅葉に面会し俳「鉄杵」をもらう。
明治33年(1900)新潟県尋常中学校(現・県立新潟高等学校)卒業。東京で正岡子規に会い良寛を紹介、後日良寛の歌集を送る。
明治34年(1901)「東北日報」「新潟新聞」の俳句選者となる。
明治35年(1902)東京専門学校(現・早稲田大学)高等予科に入学。
明治36年(1903)早稲田大学文学科に入学。英文学を学ぶ。
明治39年(1906)早稲田大学文学科卒業。新潟県中頚城郡板倉村有恒学舎(現・県立有恒高等学校)の英語教師となる。
明治41年(1908)新潟県中頚城郡新井町(現・妙高市)の醸造家入村四郎作宅で、俳人の小林一茶自筆「六番日記」を発見する。
初めて奈良地方を旅行し、和歌20首を詠む。これらを「西遊咏艸」と題する。(以後35回以上奈良へ旅する)
明治43年(1910)有恒学舎を辞職。坪内逍遙に招かれ、早稲田中学校の英語教師となる。
大正2年 (1913)早稲田大学英文科講師を兼任する。
大正7年 (1918)早稲田中学校教頭となる。
大正9年 (1920)日本希臘(ギリシャ)学会を設立する。
大正11年(1922)東京市外落合村下落合、市島謙吉の別荘閑松庵に転居し、秋艸堂と自称する。
大正12年(1923)関東大震災。日本希臘(ギリシャ)学会を解消し奈良美術研究会を創立する。
大正13年(1924)會津八一監修「室生寺大観」を飛鳥園から刊行。第一歌集「南京新唱」を刊行。
大正14年(1925)早稲田中学校を辞職、早稲田大学附属高等学院 教授 となり、英語を担当する。
大正15年・昭和元年(1926)再び早稲田大学文学部講師となり、東洋美術史を講義する。
昭和6年 (1931)早稲田大学文学部 教授 となる。
昭和8年 (1933)「法隆寺法起寺法輪寺建立年代の研究」を刊行。この年から高橋きい子(義妹)が家事を見る。
昭和9年 (1934)文学博士の学位をうける。早稲田大学恩賜館に東洋美術史研究室を開設する。
昭和13年(1938)早稲田大学文学部に藝術学専攻科を設置し、主任教授となる。
昭和15年(1940)歌集「鹿鳴集」を刊行。
昭和16年(1941)銀座鳩居堂で近作 書画 展を開催、書画図録「渾齋近墨」を刊行。
昭和17年(1942)奈良・新薬師寺に最初の歌碑「ちかづきて」を建立する。随筆集「渾齋随筆」を刊行。
昭和18年(1943)奈良・春日大社境内に「かすがのに」の歌碑を建立する。学徒出陣を控えた学生を奈良・京都の研修旅行に引率。
昭和19年(1944)歌集「山光集」を養徳社より出版する。
昭和20年(1945)早稲田大学教授を辞任する。
空襲により罹災し、新潟県北蒲原郡中条町(現胎内市)の丹呉康平宅に寄寓。7月10日、養女きい子病没(享年33歳)。
昭和21年(1946)「夕刊ニイガタ」創刊にともない夕刊新潟社の社長となり、新潟市南浜通二番町に転居する。
昭和22年(1947)歌集「寒燈集」と 書画 図録「遊神帖」を刊行。
昭和23年(1948)早稲田大学 名誉教授 となる。
昭和24年(1949)従兄弟中山後郎の娘蘭を養女とする。
昭和25年(1950)新潟日報社の社賓となる。新潟県立図書館に「みやこべを」の歌碑建立。
奈良・東大寺に「おほらかに」、唐招提寺に「おほてらの」の歌碑を建立。
昭和26年(1951)新潟市 名誉市民 に推挙される。「會津八一全歌集」を刊行、これにより読売文学賞を 受賞 する。
昭和28年(1953)宮中歌会始の儀に召人として臨席する。「自註鹿鳴集」を刊行。
昭和29年(1954)早稲田大学會津博士記念東洋美術陳列室を移転し再開する。
昭和30年(1955)香川県五剣山八栗寺の鐘 を揮毫する。北方文化博物館分館に「かすみたつ」の歌碑を建立。
昭和31年(1956)11月21日、冠状動脈硬化症により逝去。 享年75歳

 

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