棟方志功 買取

古美術やかたは、棟方志功の作品を後世に伝えたいとの思いで、半世紀営業してきました。
写真の作品は市場価格、数千万円で、買取価格も千万円を超える棟方志功の作品です。

【老舗骨董店の一味違う営業実績】
*棟方志功 買取価格のワンポイント
*販売から買取の当店ならではの技
*棟方志功の作品高価買取出来る理由
*NHK・和楽等、信頼あるメディア紹介多数
*安心して買取依頼出来る6つの技
*棟方志功作品の種類や説明と鑑定機関

棟方志功の買取事例や買取価格と作品説明
                  

日本一、歴史ある京都祇園骨董街にあります。

京都は千年も続いた都です。
京都祇園骨董街の中でも当店は、歴史的保全地区に指定されています。
約80軒の古美術骨董商が軒を連ねる、
日本でもトップの祇園骨董街にある老舗の骨董店です。

京都祇園で小売販売している老舗骨董店だからこそ高価買取出来るのです。

世界各国から1日100名近くのお客様がご来店頂いております。
店頭には買取商品を常時2000点以上展示販売しており、愛好家やコレクターの方が品物の入荷をお待ちです。

買取依頼のお客様に納得して頂くことを第一と考えております。

ホームページや店頭にて販売する価格を提示して、買取りさせて頂いております。
是非、ご来店頂くか、ホームページをご覧下さい。
京都祇園で昭和56年に開業、長年の信頼と実績があります。

京都美術倶楽部大阪美術倶楽部鴨東古美術会京都古書組合東京古書組合に加盟しております。

●棟方志功の肉筆画・版画の高価買取出来る理由

★あなたも驚く骨董業界の真実★

「百聞は一見にしかず」 絵画買取依頼で失敗したくない方、是非ご覧下さい。
 

★お譲り頂いた品物を直接販売しており、入荷をお待ちのお客様もたくさんおられます。

 

棟方志功の作品ー査定・買取ポイントのアドバイス

棟方志功(むなかた しこう)・特徴と技法

棟方志功買取

妙如菩薩󠄀の柵

1903年(明治36)~1975年(昭和50)72才没。

明治36年9月5日青森市の代々鍛冶職に生まれ、囲炉裏の煤で眼を病み幼い頃から視力が弱かった。子供の頃から絵が好きで、土地に伝わる凧やネブタに措かれた武者絵をまねるのが得意で、
白い花、沢瀉(おもだか)を見て「この美しさを表現できる人になりたい」と決意する。

18歳のとき、雑誌「白樺」に掲載されたゴッホの「ひまわり」の原色版を見せられ、深い感銘をうけます。「ワ(私)だば、ゴッホになる」「ようし、日本のゴッホになる」という決意を固めて21歳の秋に上京。上京して5年目の昭和3年油絵「雑園」が初入選しかし、憧れのゴッホも高く評価した日本の 木版画 に気づきます。川上澄生の版画を見て感激し、昭和7年 国画会 展に出品した版画が、海外美術館に買い上げられ 版画 の道に進む転機になる。

柳宗悦や濱田庄司河井寛次郎とも知遇を得て、民藝運動そして、芸術や哲学、宗教を学び、作品に反映させていった。以降、〈二菩薩釈迦十大 弟子〉など代表作となる作品を次々と発表し、この頃「板の声を聞く」という言葉を残している。
地と図の白黒が逆転した新たなる棟方板画様式の確立や、「鐘渓頌」にみられる裏彩色の手法が大衆的な支持を広げた。
昭和31年53歳の時、第28回ヴェネツィア・ビエンナーレの出品作家に選考され、一躍時の人となった。
また、郷土を愛する心は強く、凧絵やねぶたは勿論「清く高く美事に希望の大世界を進み抜く」の石碑が地元にあります。
昭和45年11月には青森県人として初めて 文化勲章 を受章しました。版画家としての受賞も棟方ただ一人です
棟方志功の代表作品「二菩薩釈迦十大弟子」「文殊菩薩の柵」「湧然する女者達々」「柳緑花紅頌」「弁財天妃の柵」「大和し美し」

棟方志功の作品  画風と買取価格のワンポイント

ふっくらとした美人画で、大首といわれる女性の顔のアップに手彩色を施した美人図は特に人気があり、
また「二菩薩釈迦十大弟子」などは希少価値があり、菩薩の顔を描いた作品等、高価買取させていただきます。
版画の摺り色も濃い、薄いで買取価格も違い、大首の女性像の作品は、華やかな裏彩色を施している程、高く評価できます。
『弘仁の柵』『吉祥天妃の柵』『沢瀉妃の柵』に代表される「美人大首絵」は非常な人気で、高価買取させて頂けます。

棟方志功買取

御鯉図

棟方志功の版画は、手彩色で一枚といって同じ作品がない、オリジナルの希少性をもつ 版画 で、注文に応じて刷っており、棟方志功の作品は油絵や水墨着彩の絵画もありますが、一般的な志功の作品では、版画の方が買取価格は高価です。
また 図柄 や制作年代により買取価格は変動し、摺り具合や裏彩色の技法により買取価格は大きく変わってきます。
棟方志功の場合は多種に及ぶ作品があり、お問い合わせ頂ければと思います。
元々、囲炉裏の煤で眼を病み幼い頃から視力が弱く、片目の視力を無くしても、「板の声を聞く」と下向きな努力で、知遇友を得て、民藝運動そして、芸術や哲学、宗教を学び、妻のチヤへの感謝や母性に宿る仏性から「二菩薩釈迦十大弟子」「美人大首絵」と独自の世界を築いた。

 

略歴
1903年(明治36)~1975年(昭和50)72才没。
明治36年(1903)青森市の刃物鍛冶屋の父鍛冶職棟方幸吉、母さだの三男。15人兄弟。
大正10年(1921)友人松木満史、古藤正雄、鷹山宇一ら3名と 洋画 の会「青光社」をつくり、
第1回 展覧会 を日本赤十字社青森支部で開く。
大正14年(1925)川上澄生の版画「初夏の風」をみて感動、版画 制作へむかった。
昭和 3 年(1928)平塚運一を訪れ、版画を学び始める。
昭和 5 年(1930)赤城チヤと結婚。国画会 展にはじめて「群蝶」など4点を出品し、入選する。
昭和11年(1936)柳宗悦、河井寛次郎ら民芸運動の人々と知り合い、棟方芸術に多大な影響を及ぼす。
昭和12年(1937)国画会同人となる。 版画に宗教的境地が現れてくる。
昭和31年(1956)アメリカ各地で 個展 を開催。日展 評議員 となる。秋に左眼を失明する。
昭和35年(1960)藍綬褒章を授与される。
昭和38年(1963)昭和39年度朝日 文化賞 を受ける。紺綬重飾褒章を授与される。
昭和42年(1967)日本板画院より名誉会員に推される。渡米。
昭和45年(1970)文化勲章受章文化功労者 として顕彰される。
昭和50年(1975)富山県福光町に棟方志功記念館愛染苑開館。肝臓癌のため死亡。

 

棟方志功の作品をお持ちのお客様、お気軽にご相談ください。

掛軸の場合は、購入された時から入っている箱(共箱)は大切な箱で、共箱には棟方志功の自筆のサインと 落款 が押されています。
共箱は、保証書も兼ねており、有る・無しで、買取価格は大きく変動します。
棟方志功の場合、以前鑑定されていた棟方志功のご長男、棟方 巴里爾の鑑定証をお持ちの方は一緒にお持ちくださいませ。

鑑定証の有無に関わらず、まず当店で無料の真贋の判断やアドバイスをさせて頂きますので、ご相談ください。
残念なことに、最近では「棟方 巴里爾の鑑定証」や「棟方志功鑑定委員会」の鑑定証のシールにも贋物があり、
新たに東急百貨店美術部内の棟方志功ギャラリーで鑑定・登録を取得する場合もあります。(有料)

シミや汚れがある場合でも、現状のままお持ちください。

下記のような汚れや剥脱があっても、現状のままお持ちください。
棟方志功の 木版画 や絵画は、「蔵シミ」や「ほし」と言われる汚れがある場合があります。
買取価格も変わってくるので、出来ればご確認ください。

棟方志功の鑑定は、下記の鑑定機関で行われており、真贋を問うだけで約3万円~5万円かかります。

【所定鑑定人・鑑定機関

棟方志功鑑定委員会(東急百貨店美術部内の棟方志功ギャラリー)

 

お買取りさせて頂いた作品は価格を表示してホームページや店頭で販売しています。

百聞は一見に如かず、是非ご覧ください。
お譲り頂いたお客様に納得頂き、信頼と安心をお届けします。

棟方志功をはじめ買取させていただいた作家の作品も数多くあります、是非ご覧ください。

当店には棟方志功の愛好家やコレクターのお客様もおられ、新しい作品の入荷をお待ちです。
棟方志功の作品をお持ちのお客様は、お気軽にご相談頂ければ、適切なアドバイスをさせて頂きますので、是非お問い合わせ下さい。

古美術やかたの店内写真

メディアにも多数ご紹介いただいております

TV出演お断りの理由は「古美術やかたの特長」や「買取のお客様必見」を詳しくご覧下さい。

日本全国対応致します
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075-533-1956

11:00~18:00(定休日:月・火)

※ご予約の買取業務は定休日も行っております。

 

買取は古美術やかたへ!老舗骨董店ならではの6つの技

 

棟方志功 略歴

棟方志功買取

くちなし妃の柵

青森県青森市で代々鍛冶職を営んできた刀鍛冶職人・棟方幸吉と母さだの三男として生まれる。小学校卒業後、家業の鍛冶職を手伝い、さらに裁判所の給仕となる。
1924年(大正13年)画家 を志し、鷹山宇一らと洋画グループをつくり、東京へ上京すると、帝展や白日会展などに油絵を出品するも、落選が続く。上京して5年目の1928年(昭和3年)に第8回日本創作版画協会展、第6回春陽会展に版画が入選、第9回帝展に「雑園」(油絵)を出品し、初入選。「雑園」の入選する前から、版画に心をひかれていたが、川上澄生氏の「初夏の風」という版画を見て感激し、同郷の下沢木鉢郎氏に連れられて平塚運一氏を訪れ、初めて版画の道に入り、本格的な木版画制作を始める。
1929年(昭和4年)に春陽会に版画4点が入選し、翌1929年(昭和5年)には、国画会に出品した版画4点が全て入選。この頃から「版画」一筋に行くことを決心した。
1930年(昭和5年)からは文化学院で美術教師を務め、1932年(昭和7年)に日本版画協会会員となる。この頃から仏教的主題が多くなる。
1934年(昭和9年)に佐藤一英の詩「大和し美し」を読み感動し、制作のきっかけとなった。
1936年(昭和11年)国画会に「大和し美し」(版画巻)を出品して日本民芸館に買上げられ、柳宗悦、河井寛次郎浜田庄司氏らの知遇を受けるようになる。これが出世作となり、これを機に河井寛次郎、柳宗悦ら民芸運動の人々と交流する様になり、以降の棟方芸術に多大な影響を及ぼすこととなった。日本創作版画協会展、春陽会展、国画会展に版画を出品のほか、帝展に油絵を出品。
1937年国画会同人となり、1938年の第2回新文展で初の特選、1941年(昭和16年)には第5回佐分賞 受賞
1942年(昭和17年)以降は、版画を「板画」と称して、木版の特徴を生かした作品を一貫して作り続けた。棟方の肉筆画作品は「倭画」と呼ばれ、国内だけでなく、国外でも板画と同様に評価されている。第二次世界大戦中に富山県に疎開し、浄土真宗にふれ、「阿弥陀如来像」「必至無上道」「蓮如上人の柵」「我建超世願」「御二河白道之柵」など、仏を題材とした作品を制作した。また非常にねぶた好きであったため、作品の題材としても描いた。生前ねぶた祭りに跳人として参加している映像や写真も現存し、また歓喜する自身の姿を描き込んだものも存在する。
1952年(昭和27年)スイスの第2回ルガノ「白と黒」国際展で受賞、日本版画協会を脱会し、日本版画院を結成。
1955年(昭和30年)第3回サンパウロ・ビエンナーレに「釈迦十大弟子」などを出品し、版画部門の最高賞を受賞。
1956年にベネチア・ビエンナーレ展で国際版画大賞を受け、世界的な評価を確立。その間に日本板画院を創立して主宰、国内とアメリカの各地で数多くの展覧会を開いた。
1956年(昭和31年)第28回ヴェネチィア・ビエンネーレに「柳緑花紅頌」などを出品し、国際版画大賞を受賞し、世界の棟方としての地歩を築いた。
1960年(昭和35年)アメリカ各地の諸都市の大学で講演をしたり、個展 を開催し、ヨーロッパにも行ってゴッホの墓を訪ねる。
1960年(昭和35年)藍綬褒章を授与され、1963年(昭和38年)朝日文化賞、紺綬重飾褒章、ダートマス大学より名誉文学博士号、イタリア芸術院より名誉会員になる。このころから極度に視覚が弱くなったが、ときに縄文的とか、青森の祭ねぶたのエネルギーとかと評される奔放な 作風 と旺盛な制作意欲は変ることなく晩年まで続いた。縄文的血脈の現代的開花とも評されるその作風は、独特の宗教的表現主義である。
1965年(昭和40年)青森市から名誉市民賞を授与される。棟方の郷土を愛する心は人一倍強く、凧絵やねぶたは勿論のこと、風物に対しても大変心をよせていた。また青森市の合浦公園には、少年達を励ますために「清く高く美事に希望の大世界を進み抜く」という言葉を刻んだ記念の石碑が建てられている。
1970年(昭和45年)毎日芸術大賞を受章、文化勲章 受章、従三位、文化功労者 として顕彰される。
1971年(昭和46年)日展 常任理事となり、青森市に棟方志功記念館が開館した。
1975年(昭和50年)富山県福光町に棟方志功記念館愛染苑開館し、同年死亡、同日付で贈従三位。
1982年(昭和57年)佐藤尚武郷土大賞受賞。20世紀の美術を代表する世界的 巨匠 の一人で、宗教的主題の多くの傑作を生み出し、日本画 の大作も多い。 木版画 の代表作は「大和し美し」「二菩薩釈迦十大弟子」「湧然する女者達々」「柳緑花紅頌」ほか。なお、1963年倉敷市の大原美術館内に棟方板画館、1975年11月には郷里の青森市に棟方志功記念館が開設された。棟方は、版画のほかに、独特の文体をもった随想・随筆でも知られた。著書に「板画の話」(宝文館、昭和29年)、「板極道」(中央公論社、昭和39年)ほか、「棟方志功板画大柵」「わだばゴッホになる」など数十冊にのぼる。また、油絵、倭画、書、詩歌などに多くの傑作も残されている、浮世絵師で版画家。

棟方志功の主な出来事や作品の年表

明治36年(1903)青森市の刃物鍛冶屋の父鍛冶職棟方幸吉、母さだの三男。15人兄弟。
大正5年 (1916)青森市立長嶋尋常小学校を卒業。家業の鍛冶職を手伝う。このころ、凧絵とネブタに熱中し、武者絵を描く。
大正10年(1921)友人松木満史、古藤正雄、鷹山宇一ら3名と洋画の会「青光社」をつくり、第1回 展覧会 を日本赤十字社青森支部で開く。
大正13年(1924)青森市立長嶋尋常小学校を卒業後、給仕の職など働きながら 画家 を志して上京、独学で絵を学んだ。白日会展、帝展 などに出品。
大正14年(1925)川上澄生の版画「初夏の風」をみて感動、版画制作へむかった。版画家平塚運一、前田政雄らを知り、春陽会展、日本創作版画協会展、国画会展などに出品した。油絵「清水谷風景」白日会に入選する。
昭和3年 (1928)平塚運一を訪れ、版画を学び始める。第8回日本創作版画協会展、第6回春陽会展に版画7点を出品、3点入選。第9回帝展に帝展に「雑園」(油彩画)を出品、初入選。この頃から版画へと興味を移し、本格的な木版画制作を始めた。
昭和5年 (1930) 赤城チヤと結婚。国画会展にはじめて「群蝶」など4点を出品し、入選する。
昭和6年 (1931) 油絵と版画による最初の 個展 を開催。白日会より油絵「猫と少女」で白日賞を受け、会友に推される。この年、同会を脱会。
昭和7年 (1932)日本版画協会会員となる。国画会奨学賞、白日会F氏賞受賞。
昭和11年(1936)第11回国画会展に出品した「瓔珞譜大和し美し版画巻」が柳宗悦、河井寛次郎、浜田庄司らの注目を集め、棟方版画の出発点となった。柳宗悦、河井寛次郎ら民芸運動の人々と知り合い、棟方芸術に多大な影響を及ぼす。
昭和12年(1937)国画会同人となる。版画に宗教的境地が現れてくる。
昭和13年(1938)第2回新文展に「善知鳥版画巻」出品、特選となる。
昭和16年(1941)第5回佐分賞 受賞
昭和21年(1946)日展岡田賞受賞。福光町栄町に住居を建て移り住む。「鯉雨画斎(りうがさい)」と呼び、また谷崎潤一郎の命名にて「愛染苑(あいぜんえん)」ともよぶ。
昭和27年(1952)第2回スイス・ルガノ「白と黒」国際展で優秀賞受賞。日本版画協会を脱会し、日本版画院を結成。
昭和30年(1955)第28回ヴェネチィア・ビエンナーレで日本人として版画部門で初の国際版画大賞を受賞。「世界のムナカタ」の地位を確立。
昭和31年(1956)アメリカ各地で個展を開催。日展評議員となる。秋に左眼を失明する。青森県褒賞を授与される。
昭和34年(1959)ロックフェラー財団とジャパンソサエティーの招きで、山下汽船山君丸で渡米。ニューヨーク、ボストンなど各地の大学で版画の講義と個展を開催し、11月帰国。オランダ、フランス、スペイン、イタリア、スイスへ1ヶ月旅行し、パリ郊外オーベルのゴッホの墓を訪れる。
昭和35年(1960)藍綬褒章を授与される。「狩漁の柵」「鷺畷の柵」「松網の柵」「般若心経板画柵」などを制作。クリーブランド美術館主催の「棟方志功展」がアメリカ各地で開かれる。
昭和36年(1961)青森県庁玄関上に板壁画「花矢の柵」を制作。日本国際美術展に「七海の柵」、日展 に「円空の柵」などを発表。『中央公論』連載の谷崎潤一郎「瘋癲老人日記」の 挿絵 板画の制作を始める。
昭和37年(1964)「風舞の柵」(のち「風韻の柵」「渦風の柵」と改題)「巴舞の柵」(のち「巴韻の柵」と改題)「誕生の柵」、日展に「伊我良天神像」(のち「怒天神の柵」と改題)などを発表する。
昭和38年(1963)昭和39年度朝日 文化賞 を受ける。紺綬重飾褒章を授与される。ダートマス大学より名誉文学博士号、イタリア芸術院より名誉会員に。日展に「貝族の柵」、日本国際美術展に「恐山の柵」を発表する。南米チリで日本大使館主催で「棟方志功展」を開催する。
昭和39年(1964)「道標の柵」「讃々の柵」「天網の柵」「賜顔の柵」などを制作、「東海道棟方板画」を開板する。皇居の御歌会始に招かれる。伊勢神宮に奉献する倭画「富士山」「不二山」を完成。首相官邸の貴賓室に「柳緑花紅頌」屏風を制作。朝日新聞社主催の「棟方志功板業代表作展」を東京、名古屋、他で開催する。中央公論社より自伝『板極道』、朝日新聞社より『東海道棟方板画』を刊行。「賜顔の柵」(7回日展)、「道標の柵」(6回日本現代美術展)、「湧然する女者達々」(15回選抜秀作美術展)
昭和40年(1965)青森市から 名誉市民 賞を授与される。「津軽海峡の柵」、草野心平の詩による「富嶽頌」、「弁財天妃の柵」などを制作する。他にハワイ、アメリカでの作品「ミキの首飾り」「ミキの耳飾り」などを制作し、出品する。日本の木版画に尽くした功績により昭和39年度朝日文化賞を受ける。セントルイスのワシントン大学の招きで渡米し、4月まで日本版画を講義する。ダートマス大学より名誉文学博士 を受け、帰国。イタリア芸術院より名誉会員に推される。紺綬重飾褒章を受ける。
昭和41年(1966)日本現代美術展に「乳願の柵」を出品する。倭画「富士十題」などを制作。倉敷・大原美術館「棟方板画館」に出陳するため、「追開東海道棟方板画妙黛屏風」を完成する。岩崎美術社より草野心平詩、棟方板画による『富士山』を刊行する。
昭和42年(1967)日本国際美術展に「津軽三味線の柵」(4柵)、日展に「巴礼寿の審判の柵」(のち「審判の柵」と改題)「砂山の柵」「誓刻の柵」などを発表する。日本板画院より名誉会員に推される。アメリカのクリーブランド市のメイ・カンパニー主催による「棟方志功板画 屏風 形体ワンマンショー」のため渡米。続いてニューヨークのブルックリン美術館、ワシントンのスミソニアン美術館でも展示。翌43年末帰国。
昭和43年(1968)日本現代美術展に「手に負う者達々の柵」、日展に「御志羅の柵」(のち「飛神の柵」と改題)を発表。他に「安於母利妃の柵」「立つ者々の柵」「湧く者々の柵」(のち「湧然美神の柵」と改題)「撫生子の柵」「釈迦三尊の柵」「合浦の柵」などを制作。大阪万国博のための大板壁画「大世界の柵」の制作に着手する。
昭和44年(1969)毎日芸術大賞を受章。日展に「東北風の柵」を出品したほか、「光明の柵」「烏帽子鷹妃の柵」「大世界の柵 乾 」を制作。青森市名誉市民第1号とその称章を受ける。青森市文化センターの板壁画「華狩頌」「宇宙頌」の除幕と同館開館記念の「青森名誉市民棟方志功作品展」を開催。朝日新聞社主催による板芸業四十周年記念「棟方志功障壁画展」が東急日本橋店で開かれる。講談社より『棟方志功板画大柵』、弘前・緑の笛豆本の会より『哀しき父と悲しき母の物語』刊行。
昭和45年(1970)文化勲章 を受章。従三位。文化功労者 として顕彰される。藤尚武郷土大賞受賞。日展に「第九の祭柵」(「亦楽窓頌板画柵」ともいう)、友人の竹内俊吉のために「竹内俊吉句板頌」などを制作。『棟方志功板画大柵』と「板芸業40年記念障壁画展」に対し、第11回毎日芸術大賞を受ける。名古屋・名鉄百貨店で「毎日芸術大賞受賞記念棟方志功展」を開催。講談社より『棟方志功芸業大韻』を刊行。「第九の祭柵」(2回日展)「大世界の柵 乾 」(万博日本民芸館展)「釈迦十大弟子」(20回日本板画院展)
昭和46年(1971)日展常任理事となる。青森市に棟方志功記念館開館。日展に「八甲田山の柵」「名久井鷹妃の柵」「十三の詩の柵」などを制作する。朝日新聞社主催の文化勲章受章記念展を東京、大阪、福岡、熊本、青森、名古屋、広島で開催する。陸奥新報社創刊25周年を記念し、「棟方志功ねぶた」(弘前式の扇ねぶた)を作る。東奥日報社制定の第1回佐藤尚武郷土大賞を受ける。講談社より浜田益水の写真集『写真棟方志功』『日本の名画・棟方志功』が刊行。
昭和48年(1973)金沢・三越で「棟方志功芸業展」開催。東急日本橋店で「蘭奢待頌展」開催する。芭蕉の『奥の細道』の取材。この旅行での三百余点の スケッチ をもとに「奥海道棟方板画」13柵のほか、板画10数点などを制作する。倭画「八甲田山」連作などを制作、神戸・湊川神社楠公会館の倭画大壁画を完成する。財団法人棟方板画館を設立。東急札幌店開店記念として「宝門加得渡宇頌韻展」を開催。東急日本橋店で新作による「棟方志功芸業昴展」を開く。
昭和49年(1974)「禰舞多運行連々絵巻」を制作。「むさしのひめかみの柵」「深大寺鐘桜の柵」など20数点を制作、また「『わだはゴッホになる』の柵」を発表。日本放送協会より放送文化賞を受ける。「羽海道棟板画」13柵を制作。東急吉祥寺店開店を記念して「吉祥展」を開催。志功を改め、志昴とする。渡米。ダラスのサザン・メソジスト大学、ワシントン大学などで講演と木版画制作のデモンストレーションを行う。日展に「捨身施虎の柵」出品。
昭和50年(1975)富山県福光町に棟方志功記念館愛染苑開館。3月、NHK放送開始50周年記念切手「観聞の柵」発行。日展理事、日展常任理事となる。毎日映画社の記録映画「彫る-棟方志功の世界」完成。5月下旬、旧作「瞞着川板画巻」から13点を選び彩色、51年度安川カレンダーとする。東京・杉並区の自宅で肝臓癌のため死去。享年72歳。従三位を追贈される。東急日本橋店で「棟方志功石版画展」を開催する。集英社より『現代日本の美術・棟方志功』刊行。
昭和51年(1976)9月、朝日新聞社より板画の主要作品を網羅した『棟方志功板業集』を刊行。9月10日より年内にかけて棟方板画館、朝日新聞社の主催で「棟方志功展」が東京・名古屋・大阪・京都・横浜・札幌で開催。
昭和57年(1982)佐藤尚武郷土大賞 受賞

 

買取商品一覧

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販売商品 PRODUCT

お買取りさせて頂いた品物はこのように価格表示してお店やホームページで販売、掲載しております。

 

買取作家一例

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買取方法と流れ

★出張買取 出張・査定・見積り、全て費用は無料

★宅配買取 送料無料、買取価格保証

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買取実績 PURCHASE RECORD

老舗骨董店の当店ならでは1000点以上の買取実績を写真入りでご覧ください。

中国美術の昔の玉で出来た湯冷ましを茶道具出張買取依頼を頂き、お譲り頂きました。

写真が13枚あります。くわしくはこちら 中国 骨董品 の湯冷ましで、時代は清朝時代の作品だと思われます。可愛いモチーフで、丁寧に彫られた昔の 職人技 が光る湯冷ましで、色味 も素晴らしい 逸品 で買取ました。採光の加減で白く光っておりますが、ご覧のように 保存状態 の良い品物で、傷んでいるところはありません。ご覧のように細部まで丁寧に作られており、非常に出来の良い作品で高価買取させて頂きました。この作品は、競り市やオークションで買い受けた作品ではありません。直接お客様より入荷した、うぶ荷と呼ばれる貴重な蔵出しの作品で、現状のまま販売しております。 湯冷ましについて少し説明します。 お茶に使用する湯を冷ますための茶器で、湯の温度を効率良く下げるため底より口の方が大きく作られています。日本独特のお茶である玉露は60℃前後が適温ですが、ティーポットややかんで沸かしたてのお湯は熱いので、美味しくお茶を頂くのに方法として湯冷ましが作られました。湯冷ましは日本独特のお茶の玉露を最高の状態で美味しく飲む道具として作られ、日本が考えた独自の茶道具です。

 

アクセス

京都市東山区大和大路通新門前上ル西之町197番地