藤田嗣治 買取

藤田嗣治は、日本画や洋画を問わず、日本人の中でも作品価格が一番高価な画家の一人と言えます。
欧米においても有名な日本人画家であり、明治以降の日本人芸術家で、最も海外で成功した画家です。

日本一、歴史ある京都祇園骨董街にあります。

京都は千年も続いた都です。
京都祇園骨董街の中でも当店は、歴史的保全地区に指定されています。
約80軒の古美術骨董商が軒を連ねる、
日本でもトップの祇園骨董街にある老舗の骨董店です。

京都祇園で小売販売している老舗骨董店だからこそ高価買取出来るのです。

世界各国から1日100名近くのお客様がご来店頂いております。
店頭には買取商品を常時2000点以上展示販売しており、愛好家やコレクターの方が品物の入荷をお待ちです。

買取依頼のお客様に納得して頂くことを第一と考えております。

ホームページや店頭にて販売する価格を提示して、買取りさせて頂いております。
是非、ご来店頂くか、ホームページをご覧下さい。
京都祇園で昭和56年に開業、長年の信頼と実績があります。

京都美術倶楽部大阪美術倶楽部鴨東古美術会京都古書組合東京古書組合に加盟しております。

藤田嗣治の作品ー査定・買取ポイントのアドバイス

藤田嗣治(ふじた つぐはる)・特徴と技法

藤田嗣治買取

バラを持つ美女達

1886年(明治19)~1968年(昭和43)81才没。

東京市牛込区新小川町の由緒正しき家柄の次男として生まれ、幼い頃に母を亡くし、軍医の父の下で育ちます。画家になることを決意し、1905年に 東京美術学校 西洋画 科に入学し、黒田清輝に 師事 します。1910年に東京美術学校を卒業し、1913年にフランスに渡り、著名な作家のピカソ、キスリング、らエコールド・パリの画家達と交流をもちます。1919年、サロン・ドートンヌで入選を果たし、会員や 審査員 に推挙されます。1925年、レジオン・ド・ヌール五等勲章を贈られます。独自の手作りのキャンバスを考案、またこの キャンバス には、水性の墨で途切れることなく柔らかな線を引く事が出来ました。藤田の絵の特徴として、乳白色の他に 線描 が挙げられ、「乳白色の肌」をもつ 裸婦像 で一躍パリの寵児となりました。一時帰国し、1935年に君代と出会い、一目惚れして翌年5度目の結婚をして、終生連れ添った。1938年頃からは従軍画家として日本で働き、戦後、戦争協力者と言われ、日本を離れ1955年にフランス国籍を取得します。
日本国内の情勢に嫌気し、1949年に日本を去り、「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」と話した。1959年72歳の時にカトリックの洗礼を受け、レオナルド・フジタと改名します。1966年ランスに感謝を示したいと礼拝堂を建設。安らぎを求めた嗣治は、晩年「フジタ礼拝堂」の設計と内装のデザイン、また子供や宗教絵画を中心に制作を続けた。ふたたび日本の土を踏むことなく、礼拝堂完成から2年後に1968年、スイス・チューリッヒで死去しました。夫人君代に残した言葉に「「みちづれもなき一人旅 わが思いをのこる妻に残して。1966年9月28日」があります。
2009年98歳で没した君代も夫嗣治と共にランスの「フジタ礼拝堂」に埋葬された。日本政府より 勲一等 瑞宝章を追贈されました。
現在でも、フランスにおいて最も有名な日本人 画家 であり、明治以降の日本人芸術家で、最も海外で成功した画家です。

藤田嗣治の作品  画風と買取価格のワンポイント

藤田嗣治買取

美人

やはり晩年の作品で「乳白色の肌」をもつ裸婦像や女性、子供や猫が人気で、高価買取させて頂けます。
藤田嗣治の作品では、美しい線描と色彩で華麗で個性豊かな作品で、1950年代の作品が特に人気です。

絵画は簡単な作品から時間をかけた力作があり、また 図柄 や種類によって買取価格は変動します。
人気が高く贋作も多くあり、東京美術倶楽部の鑑定書が必要で、鑑定 については当店で無料でご案内させて頂きます。作品のサインも「Foujita」と「Fujita」の二通りで、パリ時代のものは前者で、日本滞在中などでは後者の例が多い。藤田嗣治の作品は、自分で作られた キャンバス 等に描かれている事が多くあり、ヒビや、割れ、が生じやすいく、買取価格に影響されるので、もしも、その様であれば、ご相談下さい。

 

 
略歴
明治19年(1886)家老の家柄、陸軍軍医の次男として東京に生まれた。
母を早くに失い、父は医者になることを望んでいたが、14歳の時嗣治が 画家 になりたいと告げると、
黙って画材を買う大金を渡した。父の友人森鴎外のすすめで東京美術学校 西洋画 科へ入学。
当時の師で 印象派 の流れをくむ黒田清輝には、嗣治の 画風 は評価されなかった。
大正2 年 (1913)当時主流であった明るい外光派風の洋画にあきたらず、26歳で渡仏し、パリのモンパルナスに居を構える。
後のエコール・ド・パリの貧しいながら志し高い画家仲間との出会い、初めての 個展著名な作家のピカソに注目され、日本では得られなかった事が生きる糧となる。
大正8 年 (1919)サロン・ドートンヌに6点初出品しすべて入選、直ちにその会員に推される。
大正10年(1921)サロン・ドートンヌ審査委員となりエコール・ド・パリの有力作家、代表的な画家として活躍し1920年代初頭に発表した乳白色の肌の 裸婦像 は当時のヨーロッパで高い評価を得た。
大正12年(1923)サロン・ド・テュイルリー会員。
大正14年(1925)レジオン・ド・ヌール五等勲章を贈られる。
昭和8 年 (1933)日本に帰国。日本を活動の拠点とする。
昭和11年(1933)この頃、従軍 画家 として戦争画を描く。
昭和25年(1949)フランス入国の許可を受け日本を去る。「カフェにて」を制作。
昭和30年(1955)フランス国籍を取得(その後日本国籍を抹消)。その後は日本に戻ることは無かった。
昭和34年(1959)カトリックの洗礼を受けてレオナール・フジタと改名。
この時期、子供がいなかったFoujitaは多くの子供を描いている。
昭和41年(1966)フランスにシャペル・ノートル=ダム・ド・ラ・ペを建設。礼拝堂内のフレスコ画を制作。
昭和43年(1968)スイスの病院で81歳で死去。没2ヵ月後、日本政府より 勲一等 瑞宝章を追贈。
 

 

藤田嗣治の作品をお持ちのお客様、お気軽にご相談ください。

額装 の場合は、確実な判定材料にはなりませんが、買われた 画廊 のシールも大切な物となる場合があります。
一般的には、キャンバス の裏側に題名と作家直筆のサインが書かれており、大切な真贋の 鑑定 材料となります。

シミや汚れがある場合でも、現状のままお持ちください。

油彩の場合、画面上の汚れやヒビ、割れなどがないかを見させていただき、また制作年代や画風によっても買取価格に差が出てきます。
状態が悪い場合は修復が必要となる場合もありますが、当店で修復しますので、現状のままお持ちください。

鑑定書の有無に関わらず、まず当店で無料の 真贋 の判断やアドバイスをさせて頂きますので、お電話でご相談ください。
一般的に絵画の 鑑定 は、美術俱楽部やそれぞれの指定された 鑑定機関 で行われており、その場合、真贋を問うだけで、約3万円~5万円かかり、有料です。

【所定鑑定人・鑑定機関

東京美術倶楽部鑑定委員会

当店では高額な作品も扱っております、一例ですがご覧ください。
お買取りさせて頂いた作品は価格を表示してホームページや店頭で販売しています。

藤田嗣治をはじめ買取させていただいた作家の作品も数多くあります、是非ご覧ください。

当店には藤田嗣治の愛好家やコレクターのお客様もおられ、新しい作品の入荷をお待ちです。
藤田嗣治の作品をお持ちのお客様は、お気軽にご相談頂ければ適切なアドバイスをさせて頂きますので、是非お問い合わせ下さい。

古美術やかたの店内写真

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買取は古美術やかたへ!老舗骨董店ならではの6つの技

 

藤田嗣治 略歴

藤田嗣治買取

母子像

東京市牛込区新小川町の家老の家柄に次男として生まれた。
父藤田嗣章は軍医(森鴎外の後輩にあたる)として台湾や朝鮮などの外地衛生行政に携り、後に軍医としての最高職である陸軍軍医総監に栄達した。母を早くに失い、畏敬する軍医の父(のちの軍医総監)は医者になることを望んでいたが、14歳の時、嗣治が画家になりたいと告げると、黙って画材を買うための大金を渡したという。1905年、中学卒業後ただちにパリへの留学を考えるが、父の友人森鴎外のすすめで東京美術学校 西洋画 科へ入学し、黒田清輝師事 した。
東京美術学校への入学するも、当時の師であった 印象派 の流れをくむ「紫派」の黒田清輝には、嗣治の暗くクラシックな趣の 画風 はまったく評価されなかった。卒業後は和田英作の助手として帝劇などの背景を描く。1910年の第十三回白馬会に初入選、当時主流であった明るい外光派風の 洋画 にあきたらず、1913年、26歳の時に渡仏。パリのモンパルナスに住み、ピカソやヴァン・ドンゲン、モディリアーニらエコール・ド・パリの 画家 たちと交流。彼らに刺激され、独自のスタイルを追究し、日本や東洋の絵画の支持体である紙や絹の優美な質感を、油絵で再現しようと思いつく。手製のなめらかなカンヴァスの上に、日本の面相筆と墨で細い輪郭線を引き、淡彩を施す様式を作り上げる。繊細 な陰影を施した 裸婦像 は、「素晴らしい白い下地(grand fond blanc)」「乳白色の肌」と呼ばれて絶賛される。それらの作品を出品したサロン・ドートンヌで注目を浴び、一躍パリの寵児となる。油彩画の中に 日本画技法 を取り入れながら描いた裸婦像は、「乳白色の肌」「すばらしい深い白地」と絶賛され、西洋 画壇 からも高い評価を受けている。

1919年にはサロン・ドートンヌに出品した6点の油絵がすべて入選し、ただちに会員に推挙されるなど、作品がパリで大人気となる。
1923年、サロン・ド・テュイルリーの会員。フランスで 画家 としての地位を確立した藤田は、絵画だけでなく 挿絵本 の仕事にも積極的に取り組んだ。ヨーロッパでは 挿絵本 の歴史は古く、書物 としてだけでなく芸術作品としての価値も有していた。特に19世紀後半から20世紀にかけて、希少性の高い挿絵本は愛書家たちの収集対象となっていた。藤田がパリに渡った当時のヨーロッパは挿絵本の興隆の時代であり、ピカソやシャガールらによる挿絵本が出版され、その人気は高まる一方だった。1919年、藤田嗣治は初めての挿絵本「詩数篇」を手がける。藤田は生涯を通じて50冊を超える挿絵本をフランスで手がけ、30点以上が1920年代に出版された。すでに 挿絵 を手がけていた他の画家たちをも凌駕するこの仕事量は、当時のフランスでの藤田の人気を反映したものであると同時に、藤田自身が挿絵本の世界に魅せられていたことを物語っている。1929年に凱旋帰国展のため16年ぶりに一時帰国。個展 は話題を呼ぶが、北米、フランス、南米などを歴訪し1933年に再度帰国。1933年以降は日本を活動の拠点とする。翌年二科会会員となり、従軍画家として戦争画も描く。祖国である日本へ貢献したいという想いから、戦時中は帰国して従軍画家として活躍するものの、その活動が 画壇 から戦争協力者として批判を浴び、その責任をとる形で日本を離れる。戦後は、再び日本を離れてフランスに渡り、日本には戻らないと決め、1955年にフランス国籍を取得。フランスに移住後は1959年、72歳の時にカトリックの洗礼を受け、レオナールというクリスチャンネームを得ている。

晩年
には自身が建設に関わったフランスの礼拝堂(ノートルダム・ド・ラ・ぺ礼拝堂)のフレスコ画を完成させ、フランスへの感謝を表し、完成から2年後に没した。1925年(大正14)レジオン・ド・ヌール五等勲章を贈られる。1968年(昭和43)没後、日本政府より 勲一等 瑞宝章を追贈。猫や女性をおもなモチーフとした作品を多く残した 画家 である。乳白色の絵肌に線描する独自の 作風 を生み出し、代表的な「エコール・ド・パリ」(パリ派)の日本人画家として国際的に有名な洋画家である。

藤田嗣治の主な出来事や作品の年表

明治19年(1886)家老の家柄、陸軍軍医の次男として東京に生まれた。
母を早くに失い、畏敬する軍医の父(のちの軍医総監)は医者になることを望んでいたが、14歳の時嗣治が 画家 になりたいとあらたまって告げると、黙って画材を買うための大金を渡したという。父の友人森鴎外のすすめで東京美術学校 西洋画 科へ入学。
東京美術学校への入学するも、当時の師であった 印象派 の流れをくむ『紫派』の黒田清輝には、嗣治の暗くクラシックな趣の 画風 はまったく評価されなかった。
明治43年(1910)東京美術学校(現在の東京藝術大学)の 西洋画 科を卒業し、第13回白馬会に出品、初入選。
大正 2 年(1913)当時主流であった明るい外光派風の 洋画 にあきたらず、26歳で渡仏し、パリのモンパルナスに居を構える。
アメデオ・モディリアーニやシャイム・スーティンらと知り合う。また彼らを通じて、後のエコール・ド・パリのジュール・パスキン、パブロ・ピカソ、オシップ・ザッキン、アンリ・ルソー、モイズ・キスリングらパリ派の画家と交遊を重ねる。
貧しいながら志し高い 画家 仲間との出会い、初めての 個展著名な作家のピカソに注目されたこと、日本では得られなかったこれらひとつひとつが、生きる糧となったであろう。
大正 8 年(1919)サロン・ドートンヌに6点初出品しすべて入選、直ちにその会員に推される。
日本の 伝統 美を踏まえた絵は、フランス人にはエキゾチックなものに映り、大きな名声を得る。パリ 画壇 での評価を確立した。
絵画だけでなく 挿絵本 の仕事にも積極的に取り組み、初めての 挿絵 本『詩数篇』を手がける。
大正10年(1921)サロン・ドートンヌ審査委員となりエコール・ド・パリの有力作家、代表的な画家として活躍し、1920年代初頭に発表した乳白色の肌をもった 裸婦像 は藤田独自の表現として当時のヨーロッパで高い評価を得た。
絵を焼いて暖をとるほどの貧しい生活の中、血の滲む努力で”素晴らしき乳白色の肌”と絶賛される独自の方法を生み出した。
平滑で白い キャンバス の地に墨で描かれる陰影は、今でもどうやって描いたのかすべては解明されていない。
独特の風貌、東洋のエキゾシズムを湛えた 繊細 な作品は、実に高い評価を得た。
大正12年(1923)サロン・ド・テュイルリー会員。
大正14年(1925)レジオン・ド・ヌール五等勲章を贈られる。
昭和 4 年(1929)17年ぶりに、凱旋帰国展のため一時帰国。個展 は話題を呼ぶが、翌年にはパリへ戻る。
昭和 7 年(1932)中南米を回る。
昭和 8 年(1933)日本に帰国。日本を活動の拠点とする。
昭和 9 年(1934)二科会会員となる。従軍 画家 として戦争画を描く。
昭和14年(1939)渡仏し翌年帰国。第二次世界大戦中は日本で制作活動を続ける。
昭和25年(1950)アメリカ経由で年にフランスに渡る。
昭和30年(1955)フランス国籍を取得(その後日本国籍を抹消)。その後は日本に戻ることは無かった。日本芸術院 会員を辞任。
昭和32年(1957)フランス政府からレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を贈られる。
昭和34年(1959)カトリックの洗礼を受けてレオナール・フジタと改名。この時期、子供がいなかったFoujitaは多くの子供を描いている。パリを離れて隠やかな生活を送っていたFoujitaは、学校帰りの子供たちと語らうのを何より楽しみにしていたという。
壁や皿といった身の回りの品は、子供たちの絵でいっぱいに彩られていた。
昭和41年(1966)フランスにシャペル・ノートル=ダム・ド・ラ・ペを建設。礼拝堂内のフレスコ画を制作。
死を意識し始めたFoujitaは、晩年には自ら設計したランスの教会ノートル=ダム・ド・ラ・ペのフレスコ画に鬼気迫る情熱を注ぐ。
昭和43年(1968)スイスの病院で81歳で死去。没2ヵ月後、日本政府より 勲一等 瑞宝章を追贈。

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老舗骨董店の当店ならでは1000点以上の買取実績を写真入りでご覧ください。

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