竹久夢二 買取
竹久夢二の作品ー査定・買取ポイントのアドバイス
京都祇園、骨董では日本一の場所柄、四季折々には1日100名程のお客様に来店頂いております。
当店では相場価格に関係無く、竹久夢二の作品の入荷をお待ちのお客様も多くおられます。
竹久夢二は特に人気があり、高価買取させて頂きます。
竹久夢二(たけひさ ゆめじ)
明治17年、岡山に生まれた夢二は18歳で上京し、雑誌や新聞に 挿絵 や小さな絵を寄稿するところから画家としての道を歩み始めます。
大正ロマンを代表する抒情派の 美人画 が有名で評価が高く、彼自身の独特な美意識による「夢二式美人」と呼ばれる作品を残した。
49年という短い生涯の中で竹久夢二が描いた作品は数限りなくあり、雑誌の表紙や広告から、千代紙、便箋、封筒、日用品まで幅広くデザインを手がけ、現在のイラストレーター、グラフィックデザイナーと言えるでしょう。
大衆雑誌も普及し大正デモクラシーを背景に西洋文化の影響もあって絵画やデザイン、音楽などあらゆる文化が開花し、のちに言う「大正ロマン」の時代に生きたのが竹久夢二です。
「抒情画」と呼ばれる、新しいスタイルの女性を描いたイラストレーションが人気を集めました。
また、キャンバス に油彩の洋画技法 によって描かれた 女性像 や 風景画 も残されています。
少女、への想いから生まれた有名な詩「宵待草」も有名で、詩や童謡の創作にも力を注いぎました。
どこか物憂げで伏し目がちな女性の内面や機微をも感じさせる表現は当時の女性たちの間でも評判となり、時代を超えて現在でも竹久夢二の美人画は人々の心を惹きつけます。
竹久夢二の作品 画風と買取価格のワンポイント
竹久夢二の場合、美人画が得意で有名で、やはり美人画を描いた作品が人気です。
大正 浪漫 を代表する抒情派の美人画が有名で評価が高く、彼自身の独特な美意識による「夢二式美人」と呼ばれる作品が高価買取できます。
1884年(明治17)~1934年(昭和9)51才没。
岡山県邑久郡本庄村の代々酒造業を営む家に生まれます。
1901年に上京し、その翌年、早稲田実業学校の美術専攻科に入学し スケッチ などを投書する日々を送ります。
1905年に早稲田実業は中退するものの、在学中の「中学世界」のコマ絵「筒井筒」が一等入選を果たします。
1910年、絵葉書「月刊夢二カード」第一集を発行。
1912年、雑誌「少女」に「宵待草」を発表。「宵待草」には曲が付けられ、大衆歌として全国的にヒット。
1918年、京都府立図書館で 個展 を開き、菊富士ホテルにて「黒船屋」を制作します。
1931年、アメリカへ出航し、展覧会などを行い、その後、欧州へ渡りますが病気が悪化して帰国、1934年、50歳でこの世を去りました。
新聞や雑誌に 挿絵 を描き、書籍の装丁、広告宣伝物、日用雑貨のほか、浴衣などの デザイン も手がけるなど、グラフィックアートの先駆けとして活躍しました。
文筆の分野でも詩、歌謡、童話などを創作しています。
数多くの「夢二式美人」と呼ばれる美人画を描いた大正 浪漫 を代表する画家で、現在でも人気のある 画家 です。
竹久夢二の作品をお持ちのお客様、お気軽にご相談ください。
掛軸の場合は、購入された時から入っている箱(共箱)は大切な箱で、共箱には竹久夢二の自筆のサインと 落款 が押されています。
共箱は、保証書も兼ねており、有る・無しで、買取価格は大きく変動します。
額装の場合は、共シール が大切な評価基準になります。
共シールとは、一般的に、名刺大で、作品の裏側に貼られており、竹久夢二の直筆のサインと題名が書かれ、落款が押されています。
シミや汚れがある場合でも、現状のままお持ちください。
鑑定書の有無に関わらず、まず当店で無料の真贋の判断やアドバイスをさせて頂きますので、お電話でご相談ください。
一般的に絵画の鑑定は、美術俱楽部やそれぞれの指定された鑑定機関で行われており、その場合、真贋を問うだけで、約3万円~5万円かかり、有料です。
【所定鑑定人・鑑定機関】
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当店では高額な作品も扱っております、一例ですがご覧ください。
お買取りさせて頂いた作品は価格を表示してホームページや店頭で販売しています。
竹久夢二をはじめ買取させていただいた作家の作品も数多くあります、是非ご覧ください。
当店には竹久夢二の愛好家やコレクターのお客様もおられ、新しい作品の入荷をお待ちです。
竹久夢二の作品をお持ちのお客様は、お気軽にご相談頂ければ適切なアドバイスをさせて頂きますので、是非お問い合わせ下さい。
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京都祇園骨董街の中でも当店は、歴史的保全地区に指定されています。
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店頭には買取商品を常時2000点以上展示販売しており、
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京都祇園で昭和56年に開業、長年の信頼と実績があります。
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竹久夢二(たけひさ ゆめじ)
岡山県邑久郡本庄村の生まれで、本名は茂次郎。
大正ロマンを代表する抒情派の 画家 にして詩人。
数多くの美人画を残しており、その抒情的な作品は「夢二式美人」と呼ばれ、大正ロマン を代表する画家。
明治41(1908)年秋、夢二は革製の豪華な「新旧約聖書」を購入している。
聖書に関心を持ったのは神戸中学在学中ともクリスチャンであった妻・たまきの影響ともいわれるが、心の支えとなった「聖書」を、生涯大切に持ち歩いていたという。
明治43(1910)年、たまきの故郷・金沢を訪れた時も、当地のキリスト教青年教会との交流を深めている。
大正元年のクリスマス、京都の教会で説教の勧めに応じ、悔い改めの列に加わり、たまきにそれを報告したという話も有名である。
夢二の絵には、教会のある風景や十字架など、「キリスト教的な世界」を感じさせるものが数多く見出される。
それらには、エキゾチックな雰囲気とともに、どこか夢二の澄みきった哀愁が感じられる。
また、明治末から雑誌や画集に発表した「夢二式美人画」は大衆の心をとらえ、「大正の浮世絵師」などと呼ばれたこともある。
大正3(1914)年に日本橋呉服町に、たまきを女主人として、夢二がデザインした小間物を扱う「港屋絵草紙店」を開店。
この秋から、笠井彦乃との交際が始まる。
絵を描くことが好きな彦乃は、夢二ファンとして「港屋絵草紙店」を開く夢二のもとへ通い、絵を見てもらううちに親密な関係へと発展していった。
大正6(1917)年8月から10月にかけての66日間、夢二と彦乃は北陸・加賀路の長旅をした。
金沢には、口語短歌に専念する知友・西出朝風がいたこともあり、画会だけでなく、地元新聞への寄稿、夢二ファンたちとの交流もあって、金沢文壇、とくに口語短歌への思わぬ影響を残す日々ともなった。
9月下旬から10月にかけての三週間の思い出は、大正8(1919)年2月に出版された絵入り歌集「山へよする」に、「里居」としておさめられた十三首の歌にとどめられている。
夢二の心に安らぎを与え、良きモデルにもなった笠井彦乃は、夢二にとって 「永遠のひと」であった。
この彦乃をモデルとして次第に夢二の 画風 は確立、彼独自の省略と デフォルメ が生まれていった。
夢二が描いた絵の最も大きな特色は、いうまでもなく女性の絵に見出すことができる。
細くしなやかな肉体、長い睫毛に囲まれた大きな瞳、物憂げな表情。
この「夢二式美人画」は、妻・岸たまきをモデルとして初めて誕生したものである。
しかし、「大正の歌麿」とまでいわれ、数多くの美人画を描き続けながらも、夢二はついに自らのうちに創り出した「理想の女性美」を、現実の女性の中に発見することができなかった。
夢二の描く 女性像 のすばらしさは、その表情の内にあるといえよう。
大きな眼差しには、憂いに満ちた美しさが感じられる。
それは、夢二が女性を描く時、単に外見の美しさだけではなく、内面に隠された女性の深い哀しみ、夢二自身の哀しみ、そして普遍的な人間の哀しみをも伝えようとしたからであろう。
竹久夢二は、永遠の旅人として、放浪し続けた。
その足跡は、国内では東北から九州にまで及び、旅先では、特に哀愁漂う古びた港や海、芸妓といった画題を愛し、絵や詩に描いた。
晩年に実現した欧米への外遊においては、世界恐慌のさなかで苦境に陥りながらも多くの スケッチ をのこし、ベルリンでは 日本画 を教えている。
一方で、ユダヤ人の救済に加わったという証言もある。
さらに、児童雑誌や詩文の 挿絵 も描いた。
文筆の分野でも、詩、歌謡、童話など創作しており、なかでも、大正7(1918)年に作曲された夢二作詞の詩「宵待草」には曲が付けられて大衆歌として受け、全国的な愛唱曲となり一世を風靡した。
江戸情緒の魅力をたたえた 美人画 から、色鮮やかで楽しげな「子ども絵」まで、幅広い 作風 をもって多様なメディアで活動を展開。
また、書籍装幀にも優れた才能を発揮し、千代紙、絵封筒、半襟などの図案も手がけた。
多くの書籍の装幀、広告宣伝物、日用雑貨のほか、浴衣などのデザインも手がけており、日本の近代グラフィック・デザインの草分けのひとりともいえる。
現在でいうところの「グラフィックデザイナー」の先駆者としてゆるぎない地位を確立している。
彼自身の独特な美意識による「夢二式美人画」と呼ばれる作品の多くは、軸物や 屏風 仕立ての日本画の 技法、また、キャンバス に油彩の洋画技法による女性像や 風景画 も残されている。
好んでさまざまな表現形式を試みたが、むしろ、それらは後世になってから評価されたもので、当時の時点においては、印刷 された書籍の表紙や広告美術などが多くの目に触れ、大衆人気というかたちで脚光を浴びたのであった。
一時は中央画壇への憧れもあったようだが受け入れられず、終生、野にあって新しい美術のあり方を模索した。
画集・詩文集・童話は21世紀に入ってもさまざまな装丁で刊行されている。
生前の夢二は、独学の「大衆画家」であるがゆえに当時の 画壇 からは完全に無視されていた。
しかし、第二次世界大戦後から、その作品に対する評価は高まってきている。
竹久夢二の主な出来事や作品の年表
明治17年(1884)岡山県邑久郡本庄村119番地、代々酒造業を営む家に生まれる。本名茂次郎。
明治35年(1902)19歳、9月、早稲田実業学校入学。
明治38年(1905)22歳、友人である荒畑寒村の紹介で平民社発行の「直言」にコマ絵が掲載される。この後、「光」、日刊「平民新聞」に諷刺画などの絵を掲載。「中学世界」に投書したコマ絵『筒井筒』が第一賞入選、このとき初めて夢二を名乗る。
明治39年(1906)童話雑誌「少年文庫」の 挿絵 を描く。
明治40年(1907)24歳、岸他万喜(たまき)と結婚し、牛込区に新居を構える。読売新聞社に入社し時事 スケッチ を担当。
明治42年(1909)26歳、たまきと協議離婚。最初の著書『夢二画集 春の巻』発刊、ベストセラーとなる。
明治43年(1910)27歳、初めて金沢を訪れる。新川除町(現中央通町)「基督教青年会館」に、21日まで滞在。絵葉書「月刊夢二カード」第一集を発行する。
明治45年(1912)雑誌「少女」誌上に“さみせんぐさ”の筆名で『宵待草』原詩を発表。
大正2年 (1913)30歳、絵入り小唄集「どんたく」出版、その中の一節に『宵待草』を現在の三行詩で発表。
大正3年 (1914)日本橋呉服町に、たまきを女主人として、夢二がデザインした小間物を扱う「港屋絵草紙店」を開店。この秋から、笠井彦乃との交際が始まる。
大正4年 (1915)婦人之友社より雑誌「子供之友」「新少女」創刊、絵画主任として 挿絵 を描き始める。
大正5年 (1916)セノオ楽譜『お江戸日本橋』の表紙画、以降270余点を作画。
大正6年 (1917)34歳、当時京都に居を移していた夢二は、そこへ彦乃を呼び同棲を始める。『宵待草』に宮内省雅楽部のバイオリニスト多忠亮が曲をつけ芸術座音楽会にて発表。全国的なヒットとなる。
大正7年 (1918)35歳、京都府立図書館で 個展 を開く。菊富士ホテルにて名作《黒船屋》を描いた。
大正8年 (1919)36歳、彦乃へと捧げられた歌集『山へよする』(新潮社)刊。春頃、佐々木カ子ヨ(お葉)が夢二の新しいモデルとなる。
大正9年 (1920)37歳、彦乃、お茶の水順天堂医院にて永眠。享年25歳。『長崎十二景』『女十題』のシリーズ制作。西出朝風たちにより口語短歌詩『第一群』(のちの『純正詩社雑誌』)が金沢で刊行され、これ に夢二も参加する。
大正10年(1921)38歳、冬、《女十題》を描く。
大正13年(1924)41歳、東京府荏原郡松沢村松原(現・東京都世田谷区松原)に アトリエ 兼自宅・少年山荘(山帰来荘)を建設。絵画 小説『秘薬紫雪』を「都新聞」(現「東京新聞」)に連載。
昭和2年 (1927)「都新聞」に自伝絵画小説『出帆』を連載。
昭和6年 (1931)48歳、5月、翁久允と秩父丸で横浜からアメリカに渡る。展覧会などを行い、その後欧州へ渡る。しかしながら、病気が悪化して帰国。
昭和7年(1932)49歳、9月、渡欧。ヨーロッパ各地を歩き、多くのスケッチなどを描く。ヒトラー政権下のベルリンでは、イッテン・シューレ(一天画塾)で 日本画 教育も行う。
昭和8年(1933)50歳、9月、ヨーロッパから神戸に帰国。11月、台湾へ行き、帰国後、病臥。
昭和9年(1934)51歳、永眠。
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