東谷の詳しい説明と 買取

江戸本所林町に、木炭商の息子として生まれた、本名は鈴木鉄五郎。
「東谷」の由来である浅草馬道町に転居。
草花や虫を題材とした象嵌なしの、シンプルな牙彫饅頭、根付を彫刻製作した。
当初は「楳立」刻印を用いず、浅草の東谷という地名から「東谷」と号したという。
生地(本所林町)の氏神天神の定紋である「梅鉢」から、「楳立」とも陰称した。
「楳」は「梅」の古字である。
梅鉢紋は菅家の紋、すなわち菅原道真の紋であって、天神様の社紋である。
梅鉢紋をそのまま根付に付するのは恐れおおいため古字をトレードマークとしたと伝えられている。
東谷は古人の作品を慕い、専ら竹陽齋友親の作を習い、更に法實、寿玉、楽民等の先哲の技を学んだ。
このことから「普随」と号することとした、との資料もある。
THE JAPAN MAGAZINEの記事でも、「友親、法實、懐玉齋を非常に尊敬していた」と紹介されている。
漢字の「普」は、すみずみまで行き渡り広がる意味があり、「随」には、従い、なるままに任せ、先行者のするとおりに付いて進むの意味がある。
「普随」を「付随」にかけて、先人の業績やワザを広く敬い従うの意味を持たせたのだろうか。
「普随」は、先達に敬意を表して号したという説明に加えて、居住した家の前に位置する随神門に因んで、信心深い東谷が神を敬う意気から号した可能性もある。
13歳で父と死別し孤児となるが、その時には、既に母親は亡くなっていたとされる。
死別後、父の知人の古物商に就いて奉公、常に美術彫刻物を取り扱っていた。
良質な古道具や美術品を扱う商人だったらしい。
古物商の家に住み込みで奉公に行っていたようである。
その後、19歳の時、独立して煙草具嚢物商となる。
古道具商として鈴木鉄五郎の名前が記されており、東谷は根付師としての開業後も長い間、煙草具嚢物商を兼業していたようだ。
開業中に根付彫刻の勉強を始めた。
東谷が根付師を志したのは、古物商の奉公のなかで美術彫刻の趣味を覚えたのがきっかけである。
20歳前後というのは普通、師匠に弟子入りして年季が明けて独立する歳であるが、東谷の根付師としてのスタートは、師匠に就いて伝習した他の普通の根付師よりも10年遅かったようである。
開業直後はさほど根付が売れず、古道具商を営業しながらコツコツと腕を磨いていったと、上田令吉の「根付の研究」に記されている。
東谷は師を持たず、専ら友親の作品を習い、更に法實や寿玉、楽民(更に懐玉齋も含まれるとする説もある)達の先哲の技を学び、古根付や当時の傑作を模刻した。
友親や法實、寿玉、楽民に尊敬の念を抱いていたので、主に彼らの作品が模刻の対象だったのだろう。
東谷が古物商や煙草具嚢物商として根付や袋物を取り扱う際、彼らの根付に触れ、または自分の所有物として手に入れる機会があったのだろう。
19歳から彫刻を始めたものの、早い時期に多様な素材を使いこなす技術をマスターし、名工として頭角を現していたことが分かる。
東谷は古道具屋を営む傍ら副業として根付彫刻をしていたが、生活のためにあくせくと売らんがための安直な根付を製造していた他者とは異なる。
探求心や向上心が強かったようで、未知の材料を象嵌する技術研究に励み、また開業後には師に就いて書道も勉強した。
経済的に余裕があったことがうかがえ、これらの生活環境が総合して東谷に上品な作品を作らしめたのだろう。
ちなみに、この時代、近所には、横浜貿易商で有名な三河屋幸三郎が開く三幸商会があった。
ペリー来航の際の根付売買で有名な人で、後に貿易商として成功した。
彫刻家の高村光雲も貿易品の形彫を三幸商会から4~5年間請け負っていた時期もあったという。
当時の日本は殖産興業政策を推進中で、特に上野公園で開催された第1回内国勧業博覧会(明治10年)には、役人が職人のところに直接勧誘にやって来て、博覧会の趣旨や出品手順を詳しく説明して歩き回り説得し、大抵は応じていたようである。
しかし東谷はこれらのどの博覧会にも自分の作品を出品しなかったようだ。
俗事にとらわれず、受賞で経歴に箔を付けることにも興味を持たず、ワザの開発にせっせと研鑽を重ね、注文主の依頼のみを黙々とこなす独立志向の職人だったからとも伝わる。
また、根付は当時博覧会で歓迎された品種(輸出向きの置物、額、花瓶等)に向かなかったので、しなかった可能性も指摘されている。
東谷の「流派」は「時代彫」と記載されている。
友親や法實といった一世代前の流派を模した根付を製作していたので、このような流派名が記録されたのだろう。
東谷は、古道具商を営み、時代を経た古い物の味や魅力を十分に理解していた。
維新後の需要変化により他の根付師が総じて貿易用の置物や煙管筒への製作に移行していた時に、古い時代彫りをせっせと探求していたわけである。
東谷の初期は、象牙の饅頭根付や鏡蓋根付、浅草スタイル(谷齋風)の煙管筒を製作していたようである。
開業当初は専ら根付を製作し、34歳の時点では「煙管筒 根付 緒締」を主に製作していたと記録が残る。
東谷作品の特徴は、木刻を主体として、多様な素材を寄せ木細工的に象嵌する技法にある。
硬質の様々な色の材料を寄せ木して、鉄を除く金、銀、銅、真鍮を刀先で切る研究をして技法を自得したという。
「東京名工鑑」には、34歳の頃、象牙彫り、角彫り、木彫り、金石彫刻を行う名工として紹介されている。
明治維新の需要変動のため、明治6年以降は根付だけでなく煙管筒を製作していたという。
明治初期は袋物の流行のおかげで根付よりも煙管筒の方が需要が多かった。
さらに、東谷の得意分野は「草花・虫のたぐい」と「東京名工鑑」に記録されている。
東谷の形彫根付はほとんどが人物像であるが、草花や虫がモティーフとなるには、饅頭根付や煙管筒の作品形式しか考えられない。
すなわち、19歳で初めて彫刻を習い、友親らの作品を模刻しながら技術を上達させる途上の30歳代までは饅頭根付や煙管筒が主要作品であり、あの人物形彫りを発展させたのはそれ以降だと思われる。
名声が確立され国内だけでなく外国人からの需要が増えると、煙管筒等も製造していた東谷は、再び根付製作に回帰したようである。
煙管筒も盛んに作っていたはずだが、現在筒があまり多く残されていないことを考えれば、後期は注文以外では滅多に筒を作らなかったようだ。
東谷後期と二代目以降の作品には、寄せ木の象嵌の技法に成熟感があり、主に木刻形彫の人物根付が作られた。
よく観察しないと象嵌とは判別できない程度に控えめに入れる作品と、一方は寄せ木だと明示的に分かる大きさでカラフルに施された作品がある。
外国人に対してはこの後者の派手でカラフルな象嵌が受けたようで、顧客の好みに合わせてスタイルを変えたのではないだろうか。
MCIには、英国のOscar Raphael氏が1910年に東谷に注文した「鶴に寿老人」が紹介されていて、唯一製作年代が特定可能な作品である。
本体は木刻だが、寿老人の顔や手、脇にいる鶴は象牙でできていてカラフルな根付となっている。

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