安藤重兵衛の詳しい説明と 買取

1856年(安政3)愛知県の生まれで、旧姓名は前田松吉。
兄が七宝の道に進んでいた事もあり、20代半ばでイギリスへ留学し、帰国後は兄の七宝工房を任される。
煙草商・村田屋重兵衛のもとへ奉公に出たが、1881年(明治13)に、奉公先である煙管商・村田屋重兵衛が、大日本製造七宝会社の後を継ぎ、尾張七宝の元祖である梶常吉の孫・佐太郎を工場長として招き、「安藤七宝店」として名古屋で創業、七宝焼の製作販売をはじめた。
店主没後は幼い後継をもりたて、店舗の拡大に貢献し、株式会社安藤七宝店初代社長となる。
1881年(明治14)第2回内国博覧会、1890年(明治23)第3回内国博覧会に出品し、解散した七宝会社の業務を継承した。
1893年(明治26)シカゴ万国博覧会、1895年(明治28)第4回内国博覧会にそれぞれ出品、1899年(明治32)には安藤重兵衛を名乗る。
1900年(明治33)宮内省ご用達となり、パリ万国博覧会にて金牌を受賞した。
1901年(明治34)イギリス、グラスゴー万国博覧会にて金牌を受賞、1902年(明治35)にはロシア万国博覧会にて名誉大賞を受賞した。
1903年(明治36)第5回内国博覧会に出品する。
1904年(明治37)アメリカ、セントルイス万国博覧会出品し、名誉大牌を受賞する。
1906年(明治39)ミラノ万国博覧会にてグランプリを受賞する。
1907年(明治40)東京勧業博覧会で名誉銀牌、一等賞牌等、受賞する。
1910年(明治43)名古屋開府300年記念古美術展覧会にて一等賞金牌を受賞する。日英博覧会出品。
1903年(明治36)第5回内国博覧会出品する。
このように、世界各国で行われていた万国博覧会に出品し、受賞を重ね、「J.ANDO」の名でブースを持ち、日本の七宝を広めた。
また、以下のように、皇室御用達として受注製作を賜るなど、七宝業界で飛躍的な躍進をする。
1915年(大正4)大正天皇御料車の七宝鳳凰欄間飾板を製作納入する。
1916年(大正6)裕仁親王の結婚記念に太鼓型時計を受注製作する。
1925年(大正14)に「合名会社安藤七宝店」に改組。代表社員として安藤重兵衛が推挙される。
1928年(昭和3)鎚起七宝が創作される。
1935年(昭和10)皇太子明仁誕生祝に七宝焼兵庫鎖長覆輪平鞘御太刀拵を受注製作、名古屋市より献上される。
1936年(昭和11)に重左右衛門に改名する。
その後、第二次世界大戦において名古屋の本店の建物、商品が焼失、戦後は再建をかけ、1948年(昭和23)に安藤重兵衛を初代社長とした「株式会社安藤七宝店」を改組。
1945年(昭和20)死去。
「安藤七宝店」は、2000年に創業120周年を迎え、七宝工芸の老舗的存在で現在でも難い技術を有した工人を輩出している。
印名は「安藤氏謹製」「大日本安藤製」など。
繊細な技術を誇る素晴らしい七宝焼は、日本の伝統文化であり、世界各国の愛好家に人気がある。

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