正阿弥勝義の詳しい説明と 買取

1832年、岡山県津山二階町に住む津山藩お抱えの彫金師・中川五右衛門勝継の三男として生まれる。
本姓は中川、幼名は淳蔵、通称は淳蔵、工名は勝義。
江戸から明治の変革期にありながら、常に自らの作品の完成のみを求めつづけた金工である。
13歳の頃から父に彫金を学び、江戸幕府に出仕した後、若くして頭角を表す。
18歳のときに金工界の名門、備前岡山の正阿弥家の養子となり、9代をつぐ。
正阿弥家の9代目となってからは、代々徳川家に仕える彫金師・後藤家の門人であり、江戸幕府及び宮中の御用職人を務めていた、実兄中川一匠の指導を受ける。
勝義のつくる刀装具の美しい装飾は、大名や武士たちのステータスとなり名声を高めたが、維新後の廃刀令により仕事は激減。
1876年、フィラデルフィア万国博覧会が転機となった。
明治政府は、海外で高い評価を得ている日本の工芸品を外貨獲得の重要な輸出産業と位置づけ、正阿弥勝義の金工もその一つとなり、生き物の造形を得意とした勝義の精緻な作風は海外の博覧会で絶賛され、多くの賞を獲得した。
以後、金工の超絶技巧師として名を馳せ、花瓶や香炉などの室内装飾品、彫像などの美術工芸品の制作に転換し、作品は海外でもたかく評価され、勝義の金工技術が抜群のものであることが注目された。
1878年(明治11)には、神戸の貿易商の注文で、当代随一の工芸家達と3年がかりで大衝立を作り上げる。
これはアメリカに輸出され、現在ボストン美術館に所蔵されている。
その後、勝義は国内、海外を問わず精力的に博覧会や美術展に出品し、各地で高い評価を受け、受賞30数回、宮内省買い上げは13回に及んだという。
1899年(明治32)67歳のとき、美術研究のため京都へ引っ越しをするが京の伝統文化は正勝の才能を更に昇華させた。
正勝の名声を高めている作品の多くは、京都移住後から死去までの10年間に制作されたものである。
その作風は、精緻で、上品、ときに生々しいほどの写実的な表現で、丹念に作り上げ、「超絶技巧」というべき高い技巧である。
精緻な彫金、高い写実力・質感表現、多様な金属による色数の多さ、光沢の美しさは、全体に技術レベルが高く、明治時代に活躍したの彫金師の中でも郡を抜いている。
また、刀装具出身の金工家らしく、鉄の錆地の美しさも特徴的で、見る者の意表を突き、想像を掻き立てる遊び心や粋な趣向を盛り込み、更に複数の意匠を取り入れ対比させることで、緊張感や物語性が感じられる。
晩年はパトロン離れによる新たな顧客獲得のための慣れない営業で身をすり減らし、これまでの人生でした事も無い借金もかさんでいった。
1908年(明治41)12月19日京都で死去、享年77歳。
正阿弥勝義は、地元岡山では高く評価されたが、一般には、帝室技芸員を頂点とする近代美術史研究の中では、地方の名工という位置付けであり、高く評価されていたとは言いがたい。
正勝自身も、そう感じていたようで、明治39年(1906年)の手紙には、「時勢で、これからは図案家に協議の方がよく売れる。個人の作は勢力が薄い。技術は老人が上でも、東京の方が勢力がある」と語り、中央の権力に属する職人群に贖う「個人」である「老人」正勝の焦りや諦念、無力感が読み取れる。
むしろ海外の収集家に評価され、多くの作品が国外に流出した。
現在、確認されている作品は150件ほどで、小品や刀装具を含めればその2倍以上あると見られる。
国内で、勝義の作品を所蔵する主な施設として、東京国立博物館、京都国立近代美術館、清水三年坂美術館、野崎家塩業歴史館、林原美術館、岡山県立博物館、岡山県立美術館、倉敷市立美術館などが挙げられる。

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