後藤一乗の詳しい説明と 買取

1792年(寛政3)京都の後藤家の分家、後藤七郎右衛門家4代目重乗の次男として生まれる。
幼名栄次郎で、成人後の通称は八郎兵衛。
銘は、後藤八郎兵衛光貨、後藤光代、後藤光行、 後藤法橋一乗、後藤法眼一乗、伯應、凸凹山人、凸凹翁、寿翁、喜寿翁の添銘。
1799年(寛政11)9歳のときに八郎兵衛謙乗の養子となり、11歳より半左衛門亀乗に師事した。
1806年(文化3)15歳で後藤八郎兵衛家5代謙乗の養子となり、6代目の家督を相続して八郎兵衛光貨と名乗った。
1811年(文化8)21歳のとき光行と改名、また1820年(文政3)30歳のときに光代と改名。
このころ江戸の宗家四郎兵衛家の加役である大判の墨書書き改めや分銅の製作などの京都における業務を分担した。
1824年(文政7)33歳のとき、光格天皇の正宗刀の装具製作を行い、法橋の位に叙せられる。
剃髪してこれ以降一乗光代を名乗った。
1851年(嘉永4)61歳のとき、幕府の招きにより江戸へ下向し、芝新銀座に住し1000人扶持を支給される。
1862年(文久2)皇室のご用命により再び京都に戻り、孝明天皇の御剣金具、太刀拵を製作し、73歳で法眼の位に叙せられる。
1876年(明治9)10月17日死去、86歳。
多くの名品、船田一琴・荒木東明ら多数の門弟を残した。
若くして宗家の代行を務め、後藤家の家彫りの伝統をよく継承し、室町時代から続く、装剣金工・後藤家一門の最後を飾った人物として知られている。
また、2点が国の重要文化財に指定されている大名人である。
はじめは家風にしたがった作品を制作していたが、龍や獅子を題材にした目貫、笄、小柄の3種を同一作者、同一意匠とした三所物(みところもの)の制作をよく行っていた。
江戸時代において後藤家の刀装具は格式が高く、登城する際の刀装具は後藤家のものが通例とされていた。
これらは、彼が光行・光代を名のっていたころに多い。
しかし、江戸中期以降に入ると格式の高さ故に形式主義に陥り、後藤家の「家彫」に対し、より斬新な表現や新素材を用いた横谷派や奈良派などの「町彫」が台頭してきた。
そうした中で一乗はその高い技量もさることながら、余白を上手く用い、自然な奥行きを持つ風景的・絵画的な文様表現で新境地を開いた。
家彫の作風を脱して、写生を主としたものに転じた。
画題はきわめて豊富で、草花・虫・鳥・風景などがあり、これらを細緻な技法であらわした。
彼は復古大和絵の画家・菊池容斎に下絵を求め、また、画を松本謙斎に学ぶなどした。
特に朝廷から依頼された刀装は、他の禁裏御用の工人たちとの協力もあり、武家の刀装具に公家文化が融合した豪華で格調高い作風が示される。
これは、一乗が余技として和歌や俳諧、絵画にも秀でた文化人でもあったことが影響しているとみられる。
そのため一乗の作品には、洒脱なものや自作の歌を取り入れたものが散見する。
また、後藤家では金と赤銅以外の地金を用いた制作を禁止していたにも関わらず、鉄地の鍔も制作している。
作品は、刀装具のすべてにわたり、地金は、金・赤銅四分一・素銅、あるいは、後藤家で禁止されていた鉄地にまで及び、大いに製作意欲を燃やした。
下地・魚子・仕上げ・色つけなどに細心の注意を払い、また作品を保存する箱にみずから箱書をするなど、一点一点の作品を実に大切に取り扱った。
技法は、高彫り・薄肉彫り・毛彫り色絵・象嵌などの各種で、ことに砂子象嵌をあらわして、装飾性を高めた。
晩年の安政・万延ごろには、盛んに鉄地を素材として製作したが、その場合、一乗では無く「伯応」「凹凸山人」「一意」「夢竜」などの別号を用いている。
これは後藤家に対する遠慮からと思われる。
作品は刀装具全般にわたっており、小柄、笄などの小道具のほか鐔も作った。
阿弥陀来迎図の揃物や石橋図鐔、吉野龍田図大小揃金具は有名。

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