加納銕哉の詳しい説明と 買取
弘化2年(1845)2月15日、岐阜県美濃に加納甚左衛門の次男として生まれる。
名は光太郎で、家は幕末には奉行所の御用達を務めた名家。
安政3年、経歴芸術に造詣が深かった父・鶴峰に南画と彫刻を学ぶが、少年時代に家は没落し、母が亡くなる。
安政5年、禅寺・美濃長良の崇幅寺にて出家し、仏画や根付などを制作し、彫技は鶴洲に師事した。
明治元年(1868)還俗、還俗してからは銕哉と号し、尾張地方を漫遊し鉄筆画の技法を研究する。
明治7年頃上京し、鉄筆画、彫刻を業とする。
日本、中国の古美術を研究し、東京美術学校(現東京芸大)で教え、退職後は、木彫、銅像、乾漆像などの制作に力をそそいだ。
明治14年第2回内国勧業博覧会に「竹製扁額」を出品して妙技3等賞を受賞、日本・中国の古美術を研究した。
明治15から明治16年頃奈良に住み研究を進め、古代芸術の調査、模写・模刻を通じてさらに技術を磨く。
明治17年から明治19年のフェノロサ、岡倉天心らによる古美術調査に参加。
明治20年東京美術学校で教え始めるが、教えるよりも自らの創作活動を目指すためか、わずか2ヶ月で退職。
明治22年依願退職して制作に専念、退職後は、「唯我独尊庵主」を名乗り、制作に没頭している。
明治28年再び奈良に居を移し、「最勝精舎」を設け、古典技法の修熟に努め、木彫、銅像、乾漆像などの制作に力を注いだ。
日本の古美術に造詣を持ち、和漢の古美術を研究し、正倉院や法隆寺の宝物の模刻など制作に没頭する。
フェノロサ、岡倉天心らの古美術保護活動にも貢献し、また仏像の修復にも当たった。
大正14年(1925)10月死去、81歳。
彫刻・絵画、特に独特の鉄筆の世界を築き、伝統的・古典的表現を、置物から煎茶具など日常的なものに注いだ。
彫刻で鉄筆を重んじたのは、アイデンティティで、「写真不写形」=「真実を写して、形を写さず」というのが、銕哉の造形に関する理念である。
奈良の地に、アトリエとして草庵「最勝精舎」を創設、奈良で親交のあった志賀直哉曰く「職人気質の名工」で、気風闊達、野の人でもあった。
一方悪戯半分に自他を問わず贋作を作るという茶目っ気もあり、そのうち、「贋銕哉」も出現するはめになることになり、弟子の銕琅を悩ませるくらいだったと言われている。
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