市川銕琅の詳しい説明と 買取

東京の調布国領町生まれで、寅蔵と名付けられるも、役所の手違いで虎蔵となった。
明治末期の国領辺りの子供たちの遊びは、多摩川での釣りや道々での虫取りなどで、「土ひねり」も流行っていた。
少年の虎蔵は、教科書の西郷や東郷元帥をまねて土偶を造ったりしていた。
その絵や土偶を見て、父の鍼灸治療に通っていた石井寅三は、自分の遠縁の彫刻師・加納銕哉に預けることを思いつき、彫刻の道へ進んだとも伝えられている。
調布尋常小学校を卒業し、入門した後、東京市立下谷区第2実業補習夜学校(今の定時制中学)を卒業。
加納銕哉に徹底的な写生と彫技を学び、また師より与えられた漢詩、書、茶などの素養を基盤に、その後も努力を重ねた。
市川銕琅は加納銕哉に入門して住み込み、10代中ばで掃除や使い走りなどをしていたが、徒弟としては、徹底的に写生することを教示された。そのスケッチを集め一冊としたのが、粉本である。
粉本には、蛙、いもり、バッタ、蛇、くわがた、火取虫、かげろう、なめくじ、やもり、熊蜂、馬追虫、とんぼ、いなご、蝶、やどり蟹、鮎、鯉などたくさんの虫や魚が描かれている。
和紙に書かれた筆遣いの素晴らしさは、ずっと親しんできた虫たちへの愛情や、じっと見つめる目力、下書きもなしに、一気に描く筆の勢いなど、調布の野や川で育んだ五感の確かさが開花させた絵ごころという才能が感じられる。
鉄筆に基盤を置き、さらに彫芸は奈良人形や嵯峨人形の影響で、より古典的・華麗さを加えた。
大正7年(1918)、銕哉長男・和弘とあこがれの奈良に赴く。
元弟子の渡辺銕香より「奈良は彫刻の宝庫」と聞き、奈良に赴いたものの、小刀を忘れて行ったため、師である加納銕哉に、「彫刻師が小刀を忘れる等、武士が魂を失ったようなものだ」と、ひどく叱られたという逸話が残っている。
この頃、加納銕哉より、銕良の雅号をもらう。
大正12年(1923)師・加納銕哉と共に出かけた広島で師に代わり、彫った銕筆の技量を認められ、加納銕哉の友人で、漢学の先生、加納銕哉作品の漢詩等の校正、助言をしていた奥田抱生に、銕良改め銕琅と名乗る事を助言される。
市川銕琅の作品の特徴は、その写生力であるが、師である加納銕哉に徹底的に鍛え上げられ、能力が開花していく。
また、彫芸の方にいたっては、奈良人形や嵯峨人まで素晴らしい腕を持ち合わせている。
25歳の時、初めて作品頒布会を開いて以来、その作品への後援者によって道は開けて行き、後「銕琅会」によるなど広い愛好者の支持を受けた。
大展覧会には出品しないというポリシーを持っており、もっぱら注文品で、その愛好者には、皇室の方々の名も連ねるなど市川銕琅の愛好者は多い。
旭日章勲七等青色桐葉章を受賞しているが、あまり表沙汰にしなかった。
銕琅晩年には、「寿老人」「翁」「福の神」などを彫っている。
銕琅は、1935年(昭和10)に紫斑病を患い、その上仕事で無理をしたため耳が不自由になる。
自身耳を患い外界との音を絶ってより彫刻に集中し、至難の中に彫られたものには、不思議な笑みがあり、銕琅の「自画像」とも云える。
市川銕琅が、雅号を銕琅と名乗って以来年60年を記念しての回顧展開催を機に、出版されたものに、「銕琅の六十年」がある。
「天平雛」「鏡獅子」などの木彫のほか、鉄筆の茶托、なつめ、扇面の「七福神図」などと多岐にわたっており、作品は55点。
代表作「七福神図扁額」は初期の作品で、東大寺長老・清水公照師が表題紙 題字を手掛けている。
故東大寺長老の清水公照師をして、「天下の至宝」と言わしめた。
職人肌の名工とも讃えられており木彫り師として数々の名作を残した。
鉄筆も手掛けており、温厚でありながらその高い造形力や芸術的センスにより、世界的にも評価の高い人物と知られている。

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