後藤一乗の主な出来事や金工作品の年表と 買取

寛政3年 (1791)京都室町頭木下町で、京後藤家の分家、後藤家七郎右衛門重乗の次男として京都に生まれる。
        江戸時代末期に活躍した後藤派の装剣金工。
        幼名は栄次郎。母は二条家家臣・野間氏出身。
        兄・後藤光熈、弟・光覧も金工家。
寛政11年(1799)9歳の時に、同じ京の分家・八郎兵衛謙乗の養子となる。
寛政13年(1801)11歳の時に、半左衛門亀乗に師事する。
文化2年(1805)15歳で謙乗が亡くなったため、後藤八郎兵衛家6代目の家督を相続する。
        光貨と名乗る。
文化8年(1811)21歳の時に光行と改名する。
        四郎兵衛宗家から大判の墨書書改や分銅制作の依頼を受け、京都における業務を代行した。
文政3   (1820)文政年間初め頃、30歳のときに光代と改名する。
        この頃には後藤宗家四郎兵衛家の加役である大判の墨書書き改めや分銅の製作など、京都における業務を分担するほどの実力を持っていた。
文政7年(1824)光格天皇佩用の正宗の刀装具を制作。
文政8年(1825)刀装具を制作の功績によって法橋に叙せられ、一乗光代を名乗る。
嘉永4年(1851)3月、江戸幕府の招きで10人扶持を受け江戸へ下り、10年ほど幕府などの依頼で刀装具を制作する。
安政2年(1855)第13代将軍徳川家定にお目見えする栄誉を受ける。
文久2年(1862)朝廷の命で京都に戻り、孝明天皇の御剣金具を制作する。
文久3   (1863)法眼の位を与えられる。
慶応2年(1866)から幕府の御用は子の光伸に譲る。
明治元年(1868)朝廷から一代限り年米10俵下賜の通知を受ける。

一乗細工所を経営し、後述する優れた弟子を多く輩出した。
その名声は在世中より高く、一乗より少し後の金工家・加納夏雄は、「当時京都に後藤一乗なる者あり、技量優れて世に用いられ、その勢力殆ど本家後藤家を圧倒せしむありしかば」と評している。
維新後は、京都へ戻り、京都府知事から勧業場御用掛などに任命された。
明治9年(1876)10月17日、奇しくも廃刀令と同年に京都で逝去。86歳。
弟子も多く、子の後藤光来、船田一琴、和田一真、今井永武、橋本一至、粟穂の表現で著名な荒木東明、通信教育を受けた正阿弥勝義など。

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