加納銕哉の主な出来事や作品の年表と 買取
1845年(弘化2)、岐阜県美濃に加納甚左衛門の次男として生まれる。名は光太郎。
家は幕末には奉行所の御用達を務めた名家。
父・鶴峰に南画と彫刻を学ぶが、少年時代に家は没落し、母が亡くなる。
1858年(安政5)、美濃長良の崇幅寺に入る。出家して仏画の研究を修める。
1863年(文久3)、19歳で現在の美濃加茂市にある正眼寺に移る。
彫技を雪澤紹璞に師事。
1868年(明治元)、寺を出て還俗し、以後七年間諸国を漫遊したと言われる。
絵画、彫刻、鉄筆の研鑽に励む。
還俗してからは銕哉と号し、
鉄筆画という独自の技法で画と彫刻を業とする。
1874年(明治7)この頃上京、彫刻を本業とした。
日本、中国の古美術を研究する。
1881年(明治14)第2回国内勧業博覧会へ出品、妙技賞牌三等受賞。
1882年(明治15)この頃奈良に住み研究を進め、古代芸術の調査、模写・模刻を通じてさらに技術を磨く。
1884年(明治17)このから明治19年のフェノロサ、岡倉天心らの古寺調査にも同行する。
1887年(明治20)東京美術学校で教えた。
教えるよりも自らの創作活動を目指すためか、わずか2ヶ月で退職。
1889年(明治22)依願退職して制作に専念、退職後は、「唯我独尊庵主」を名乗り、制作に没頭している。
1895年(明治28)再び奈良に居を移し、「最勝精舎」を設け、
古典技法の修熟に努め、木彫、銅像、乾漆像などの制作に力を注いだ。
1889年(明治22)、東京美術学校(現東京芸大)が開設された際、
教諭を命じられるが、教えるよりも自らの創作活動を目指すためか、わずか2ヶ月で退職。
退職後は、「唯我独尊庵主」を名乗り、制作に没頭している。和漢の古美術を研究し、
晩年は奈良に住して「最勝精舎」を設け、
正倉院や法隆寺の宝物の模刻など制作に没頭する。
古典技法の修熟に努め、その技法は木彫・銅像・乾漆と多岐にわたった。
銕哉は早くから日本の古美術に造詣を持ち、
フェノロサ、岡倉天心らの古美術保護活動にも貢献した。
1925年(大正14)「売茶翁像」の完成後、病に臥せ、死去。81歳。
作品に「三蔵法師」など。
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