表千家家元の主な出来事や作品の年表と 買取

初代
利休宗易(1522年~1591年2月28日)
抛筌斎

二代
少庵宗淳(1546年~1614年10月10日)
利休の娘亀女と結婚、後に夫婦ともども千家に入る。
利休切腹後、会津若松の蒲生氏郷に預けられるが、数年後秀吉に千家再興を許され京都に戻り、千家2世を継承。
本法寺前の屋敷に色付九間之書院残月亭と不審庵の茶席を建てる。

三代
元伯宗旦(1578年~1658年12月19日)
咄々斎
71歳の時に不審庵を江岑(三男)に譲り、北側に今日庵を建てて末子仙叟とともに移り住む。
その後、次男の宗守が官休庵を建てたので、千家は3家に分かれる。

四代
江岑宗左(1613年~1672年10月27日)
逢源斎
宗旦の三男で1642年から紀州徳川家に仕え、茶道役となる。
紀州徳川家初代藩主である徳川頼宣は江岑宗左を重用し、幕末に至るまで代々の家元は紀州徳川家の 茶頭 を務める。
藩主に系譜や由緒書を求められ、「千家由緒書」を献上。

五代
良休宗佐(1650年~1691年7月19日)
随流斎
久田宗全の弟で、襲名 以前は宗巴と称した。
江岑宗左の養子となり、1673年に 表千家五代家元を襲名。
茶の湯 の覚書「随流斎延紙ノ書」を遺す。

六代
原叟宗左(1678年~1730年6月25日)
覚々斎
久田宗全の子で、襲名以前は宗員と称した。
12歳頃に随流斎の養子となり、表千家 を継ぐ。
養父亡き後、叔父藤村庸軒の薫陶を受け、紀州家に仕え、徳川吉宗に茶を教える。
1723年、吉宗より唐津焼の桑原茶碗を拝領する。

七代
天然宗左(1705年~1751年8月13日)
如心斎
覚々斎の長男で、襲名以前は宗員と称した。
中興の祖といわれ、弟の一燈宗室や川上不白、中村宗哲、堀内宗心などと協議し七事式を制定する。
1740年、利休百五十回忌の 茶会 を催す。

八代
件翁宗左(1744年~1808年10月6日)
啐啄斎
如心斎の長男で、襲名以前は宗員と称し、隠居後は宗旦と称した。
8歳で父と死別、川上不白達の後見を受けて、叔父である裏千家八代一燈宗室に 師事 する。
天明の大火後の千家を再建し、1789年には利休二百回忌の茶会を催す。

九代
曠叔宗左(1775年~1825年8月7日)
了々斎
久田宗渓の子で、啐啄斎宗左の婿養子となる。
紀州藩主徳川治宝の庇護を受け、1819年、十代樂旦入とともに紀州偕楽園焼の製陶に携わる。

十代
祥翁宗左(1818年~1860年6月6日)
吸江斎
久田宗也の子で了々斎の甥、1855年の隠居後は宗旦と称した。
10歳の時、紀州藩主徳川治宝に出仕し、了々斎についで、紀州偕楽園焼きに携わる。
1839年、利休二百五十回忌の茶会を催す。

十一代
瑞翁宗左(1837年~1910年1月7日)
碌々斎
吸江斎の長男で、襲名 以前は宗員と称し、隠居後は宗旦と称した。
1855年に家元を襲名後、江戸時代も終わり、明治維新を迎え、紀州徳川家への出仕も終了し苦難の時代を過ごす。
1890年、利休三百回忌の茶会を催す。

十二代
敬翁宗左(1863年~1937年7月18日)
惺斎
碌々斎宗左の長男で、襲名以前は宗員と称した。
1892年の明治時代に家元を襲名。
1906年の火災で家元の大半の建物を焼失し、再建に努める。
1913年に不審菴を再興し、1921年には松風楼を増築した。
好物は歴代の中でも多く、千家十職 以外の工芸家や各地方の 国焼 育成にも尽力した。

十三代
無盡宗左(1901年~1979年8月29日)
即中斎
惺斎宗左の次男。
父が亡くなる前年に兄の不言斎宗員が急逝した為、1937年に 家元 を襲名。
1940年、利休三百五十回忌の 茶会 を催す。
社団法人表千家同門会や財団法人不審菴を設立。

十四代
而妙斎宗左(1938年~)
即中斎の長男で、襲名以前は宗員と称し、2018年2月28日の隠居後は宗旦と称す。
1980年、家元を襲名。
1990年、利休四百回忌の茶事を催す。
2008年、京都市 文化功労者 として表彰を受章。

当代
十五代
猶有斎宗左(1970年~)
襲名 以前は宗員と称した。
同志社大学で茶道に関わる研究を行い、芸術学博士の学位を授与される。

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