富岡鉄斎 買取
日本最後の文人と呼ばれる文人画の大家、富岡鉄斎の水墨画、山水画は高価買取致します。
富岡鉄斎は自由奔放な画風と賛文が特徴で、75歳以上の晩年の青緑山水画は、特に高価買取致します。
日本一、歴史ある
京都祇園骨董街にあります。
京都は千年も続いた都です。
京都祇園骨董街の中でも当店は、歴史的保全地区に指定されています。
約80軒の古美術骨董商が軒を連ねる、
日本でもトップの祇園骨董街にある老舗の骨董店です。
京都祇園で小売販売している
老舗骨董店だからこそ高価買取出来るのです。
世界各国から1日100名近くのお客様がご来店頂いております。
店頭には買取商品を常時2000点以上展示販売しており、
愛好家やコレクターの方が品物の入荷をお待ちです。
買取依頼のお客様に納得して頂くことを
第一と考えております。
ホームページや店頭にて販売する価格を提示して、買取りさせて頂いております。
是非、ご来店頂くか、ホームページをご覧下さい。
京都祇園で昭和56年に開業、長年の信頼と実績があります。
富岡鉄斎の作品ー査定・買取ポイントのアドバイス
富岡鉄斎(とみおか てっさい)・特徴と技法
1836年(天保7)~1924年(大正13)89才没。
京都出身の儒学者で、文人 画家 としても近代日本の美術界に多大な功績を残しました。
ダイナミックな筆と奔放な色使いで、これまでにない新しい 文人画 様式を大成させました。
「九十翁」などと自署した最晩年の作品が高く評価されています。
老年を感じさせない雄渾な筆致と融通無碍な墨色、鮮やかな彩色が人気があります。
1837年に京都の商人の家に生まれ、幼い頃から様々な学問を学びました。
19歳の頃には 南画 や大和絵の 技法 も習得しています。
1862年には私塾を開設し、幕末の志士たちと交流を深めました。
明治維新 の頃は奈良や大阪で宮司を務めます。
同時に教育者でもあり続け、私塾「立命館」で教員を務めました。
画家 としての技量も非常に高く、多くの 展覧会 で 審査員 も務めています。
座右の銘は「万巻の書を読み万里の路を行く」としました。
自分の本職は儒学者であるとし、各地を旅し、多くの文物に触れています。
1874年(明治7)北海道を旅し、アイヌの風俗を題材にした「旧蝦夷風俗図」は代表作として有名です。
1897年には田能村直入などとともに日本南画協会を設立し、南画の振興にも努めました。
中国故事の深い知識と、様々な東洋画法を駆使した独創的な表現が特徴です。
1893年(明治26)京都市美術学校教員に就任、帝室技芸員、帝国美術院 会員などをつとめています。
代表的な作品に、「青緑山水図」や「魚籃観音図」があります。
富岡鉄斎の作品 画風と買取価格のワンポイント
生涯で約2万点に及ぶといわれるほどの数多くの文人画、書、篆刻などを残しました。
近年、海外のコレクターからの人気も高く、80代前後に描かれた富岡鉄斎の青緑山水画は特別高価買取対象です。
若い頃の作品では、大田垣蓮月が賛を書き、富岡鉄斎が絵を描いた作品は楽しい作品で人気があります。
絵画は簡単な作品から時間をかけた力作があり、また 図柄 や種類によって買取価格は変動します。
若年 の作品よりも、独自の境地を築いた晩年の 名品 が高価買取対象です。
富岡鉄斎の作品をお持ちのお客様、お気軽にご相談ください。
掛軸 の場合は、購入された時から入っている箱(共箱)は大切な箱で、共箱には富岡鉄斎の自筆のサインと 落款 が押されています。共箱は、保証書も兼ねており、有る・無しで、買取価格は大きく変動します。
額装 の場合は、共シール が大切な評価基準になります。
共シールとは、一般的に、名刺大で、作品の裏側に貼られており、富岡鉄斎の直筆のサインと題名が書かれ、落款が押されています。
シミや汚れがある場合でも、現状のままお持ちください。
鑑定書 の有無に関わらず、まず当店で無料の 真贋 の判断やアドバイスをさせて頂きますので、お電話でご相談ください。一般的に絵画の 鑑定 は、美術俱楽部やそれぞれの指定された 鑑定機関 で行われており、その場合、真贋を問うだけで、約3万円~5万円かかり、有料です。
【所定鑑定人・鑑定機関】
大阪美術倶楽部鑑定委員会
当店では高額な作品も扱っております、一例ですがご覧ください。
お買取りさせて頂いた作品は価格を表示してホームページや店頭で販売しています。
富岡鉄斎をはじめ買取させていただいた作家の作品も数多くあります、是非ご覧ください。
当店には富岡鉄斎の愛好家やコレクターのお客様もおられ、新しい作品の入荷をお待ちです。
富岡鉄斎の作品をお持ちのお客様は、お気軽にご相談頂ければ適切なアドバイスをさせて頂きますので、是非お問い合わせ下さい。
富岡鉄斎の買取実績と買取価格の解説
古美術やかたの店内写真
メディアにも多数ご紹介いただいております
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メディア紹介 MEDIA
- NHK国際放送で世界に紹介されました。英語版【動画】
- NHK国際放送で世界に紹介されました。日本語版【動画】
- BS朝日「京都ぶらり歴史探訪」で紹介され、中村雅俊さんご来店【動画】
- NHK京いちにち「京のええとこ連れてって」取材【動画】
- 『京都新聞』とKBS京都で鴨東まちなか美術館を紹介頂きました。
- 『和楽』7月号 樋口可南子さんがお店へ!!
- 『婦人画報』2012年5月号
- 『樋口可南子の古寺散歩』(5月17日発行)
- NHK「趣味Do楽」とよた真帆さんご来店!【動画】
- NHK『美の壺』(4月24日放送)
- 『和楽』10月号
- 『Hanako 京都案内』
- 『FIGARO japon』12月号
- 『mr partner』2011年2月号
- 2009年11月 『週刊現代』2009年11月28日号
- 『Hanako WEST』4月号
- 『骨董古美術の愉しみ方』(4月16日発行)
- 『近代盆栽』9月号
- 『Hanako WEST』11月号
- 『ORANGE travel』2006年 SUMMER
- 『婦人画報』2004年9月号
- 国際交流サービス協会に2017年6月7日紹介頂きました。
- 『Grazia』6月号
- 『VISIO ビジオ・モノ』5月号
- 『Hanako WEST』4月号
- 『gli』11月号
- オレンジページムック『インテリア』No.23
- 『MORE』12月号
- 『花時間』7月号
- 『東京育ちの京都案内』麻生圭子著 文芸春秋刊
- 『私のアンティーク』
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富岡鉄斎 略歴
1836(天保7)京都(三条通新町東)法衣商十一屋伝兵衛富岡維叙の次男として生まれる。
幼名は不明で、通称を猷輔とし、のちに道昴・道節と称し、明治のはじめ頃、一時名を鉄斎としたが、しばらくのち百錬に改名。字を無倦、号を鉄斎。別号 に鉄人、鉄史、鉄崖など。
耳が少し不自由であったが、幼少の頃から勉学に励み、はじめ富岡家の家学である石門心学を、15歳頃から大国隆正に国学や勤王思想を、垣月洲らに漢学、陽明学、詩文などを学ぶ。
安政2年(1855年)18歳頃に、女流歌人大田垣蓮月尼に預けられ薫陶を受ける。
翌年、南北合派の窪田雪鷹、大角南耕に絵の手ほどきを受け、南画 を小田海僊に、大和絵を浮田一蕙に学んだ。
文久元年(1861年)には長崎に遊学し、長崎 南画 派の祖門鉄翁、木下逸雲・小曽根乾堂らの指導を受けた。
翌2年、山中静逸と出会いをきっかけに、画業で生計を立て始めた。
この頃私塾を開設、書画で生計をたてながら国事に奔走する。
明治2年立命館教員となり、学者として知られるようになる。
藤本鉄石・板倉槐堂・江馬天江・松本奎堂・平野国臣らと交遊した。
明治維新 後の30歳から40代半まで大和国石上神宮や和泉国大鳥神社の神官(宮司)を勤めた。
この頃、大和国の式内社加夜奈留美命神社を復興している。
座右の銘である「万巻の書を読み、万里の道を往く」を実践し、日本各地を旅した。
明治7年(1874年)には、松浦武四郎との交流から北海道を旅し、アイヌの風俗を題材にした代表作「旧蝦夷風俗図」を描いている。30歳で中島華陽の娘と結婚。長女が生まれるが妻とは死別。のちに再婚し長男を授かる。
明治14年(1881年)、兄伝兵衛の死に伴い京都薬屋町に転居し、終の住処とし、明清画や 大和絵 の 模写 に励み、文人画 の近代的蘇生への歩みを続ける。
明治26年(1893年)、京都市美術学校で教員に就任し、明治37年(1904年)まで修身を教える。
大正13年(1924年)大晦日、持病であった胆石症が悪化し、京都の自宅にて死去、享年90。
代表作には、「阿倍仲麻呂明州望月図」「円通大師呉門隠栖図」「二神会舞図」「旧蝦夷風俗図」「富士山図 屏風」「妙義山・瀞八丁図 屏風」「不尽山頂全図」「蓬莱仙境図」「弘法大師像図」「蘇東坡図」「河内千早城図」「武陵桃源図」「瀛洲遷境図」「阿倍仲麻呂在唐詠和歌図」。
富岡鉄斎の主な出来事や作品の年表
1836年 (天保7)京都(三条通新町東)法衣商十一屋伝兵衛富岡維叙の次男として生まれる。
15歳頃から大国隆正に国学や勤王思想を、岩垣月洲らに漢学、陽明学、詩文などを学ぶ。
1855年 (安政2)18歳頃に、女流歌人大田垣蓮月尼に預けられ薫陶を受ける。
翌年、南北合派の窪田雪鷹、大角南耕に絵の手ほどきを受け、南画を小田海僊に、大和絵 を浮田一蕙に学んだ。
1861年(文久元)には長崎に遊学し、長崎南画派の祖門鉄翁、木下逸雲・小曽根乾堂らの指導を受けた。
翌2年、山中静逸と出会いをきっかけに、画業で生計を立て始めた。
1869年 (明治2) 私塾立命館の教員に就任。
1874年 (明治7) 松浦武四郎との交流から北海道を旅し、代表作「旧蝦夷風俗図」を描く。
1881年(明治14)兄伝兵衛の死に伴い京都薬屋町に転居し、終の住処とする。
1893年(明治26)京都市美術学校の教員に就任。帝室技芸員。帝国美術院 会員。
1894年(明治27)京都市美術学校の修身科嘱託 教授 となり、
1895年(明治28)に日本南宗画協会の結成に 評議員 として参加、定期展に出品を重ねる。
1896年(明治29)「旧蝦夷風俗図」を描く。
1897年(明治30) 田能村直入らと日本 南画 協会を発足させた。
1898年(明治31)「安倍仲麻呂明州望月図・群仙高会図」双福を完成させる。
1913年 (大正2) 堀川頭瑞院「大石山科幽居」襖絵12枚を制作する。
1914年 (大正3)「安倍仲麻呂明州望月図・円通大師呉門隠栖図」(重要文化財)を制作する。
1917年 (大正7) 帝室技芸員 となる。
1919年 (大正8) 帝国美術院 会員となる。
1924年(大正13) 逝去。89才没。
日本最後の文人と謳われている。
日本最後の文人と呼ばれ、近代日本を代表する 文人画 家。
画、国学・儒学を修め、幕末には勤王家としても国事に奔走した。
中国明清絵画を学び、大和絵 も得意とした。
国内各地を旅し、日本南画界の 重鎮 となった。
15歳のころ、当時60歳の幕末の女流歌人、太田垣蓮月(1791~1875)と知り合う。
蓮月の和歌に鉄斎が絵を描く合作などを手掛け、鉄斎に大きな影響を与えた。
若き富岡鉄斎と太田垣蓮月の交流は有名で、掛軸や 色紙 などが残されている。
89年に及ぶ生涯の大半を京都で過ごし、豊かな学識と古への敬慕のもと、多彩な書画作品を生み出した。
過去の画家達に敬意を向けながら、ダイナミックな筆と奔放な色づかいによって、新たな 文人画 様式を大成させた。
日本ならではの絵画表現を懸命に模索していた時代の中で、文人画家として、京都市美術学校(現・京都市立芸術大学)で教鞭をとるなど、次代を担う 画家 達の育成に少なからず貢献した。
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