下村観山 買取
下村観山は、茫漠とした空間を特徴とする高い精神性の画面を構成し、古典研究の成果を発揮した日本画家。
やまと絵の技巧が駆使され琳派風の鮮やかな意匠性、また朦朧体に同時に取り組む、下村観山は日本画の代表作家。
日本一、歴史ある
京都祇園骨董街にあります。
京都は千年も続いた都です。
京都祇園骨董街の中でも当店は、歴史的保全地区に指定されています。
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ホームページや店頭にて販売する価格を提示して、買取りさせて頂いております。
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下村観山の作品ー査定・買取ポイントのアドバイス
下村観山(しもむら かんざん)・特徴と技法
1873年(明治6)~1930年(昭和5)58才没
和歌山県和歌山市の、代々紀州徳川家のお抱えの幸流能楽師に生まれます。
本名:晴三郎、絵画修業は、明治15年、9歳の頃に始まり、東京へ移りました。
狩野芳崖に 師事 し「北心斎東秀」の号を頂き、その後、橋本雅邦に師事します。
明治22年、東京美術学校 の第一期生として横山大観らと第1期生として入学する。
この頃から観山の 画号 を使う、明治27年に卒業後、美術学校助教授に抜擢される。
明治29年、日本絵画協会の創設に横山大観、菱田春草と参加して、めざましい活躍をする。
第1回日本美術院展に「闍維じゃい」を出品、「元禄美人図」「春日野」も制作する。
明治34年、観山は美校に 教授 として復帰、その2年後、文部省留学生として英国に留学
1906年、日本美術院の活動が停滞し横山大観、菱田早春、木村武山ら茨城県五浦に移転。
1914年、日本美術院 を著名な作家の横山大観、木村武山、安田靫彦、小杉放菴らと再興する。
第1回再興 院展 が開催され「白狐」、2回目「弱法師」、3回目「春雨」連続で大作を出品。
茫漠とした空間を特徴とする高い精神性に満ちた画面を構成し、自己の芸術の頂点を極めました。
1917年には、帝室技芸員 となり、その後は在野精神を貫いた。
代表作には「木の間の秋」「白弧」「大原御幸」「鵜図 屏風」「白狐」「弱法師」「楠公」等々。
下村観山の作品 画風と買取価格のワンポイント
気品に満ちた美しい色彩の作品を描き、新しい手法「朦朧体」を用いました。
朦朧体で描かれた作品や、晩年の全盛期の作品が人気で、高価買取させて頂けます。
日本画の代表作家で、やまと絵の技巧や琳派風の意匠性の下村観山の作品は高価買取致します。
屏風 絵を得意とし、モチーフを手前から奥に向かって重ねていく 技法 などで、伝統 的な 画風 でありながらモダンな斬新性も表現しました。物語性の強い作品も多く、絶妙な色使いで晩年まで絵筆を振い、卓抜した筆技は近代日本 画家 中屈指と言えます。「堀塗り」「付け立て」「垂らしこみ」といったやまと絵の技巧が駆使され、琳派 風の鮮やかな意匠性や自然描写と琳派を思わせる装飾性の高い評価を得た作品が多くあります。
絵画は簡単な作品から時間をかけた力作があり、また 図柄 や種類によって買取価格は変動します。
明治6 年 (1873)和歌山県和歌山市に能楽師の3男として生まれる。
明治15年(1882)前年、8歳の時一家で東京へ移住。藤島常興、狩野芳崖に 師事。
明治22年(1889)東京美術学校 第1期生として入学。同期に横山大観、西郷孤月。
明治27年(1894)東京美術学校を卒業し21歳で助 教授 となる。
明治31年(1898)日本美術院 創立に参加。
明治34年(1901)寺崎広業と共に美術院正員のまま東京美術学校教授に復帰。
明治36年(1903)水彩画 研究のため、文部省留学生としてイギリスへ派遣される。
明治39年(1906)横山大観、菱田春草、木村武山らと茨城県五浦に移転する。
明治40年(1907)日本美術院、紅児会等による国画玉成会結成に参加、評議員。
大正3 年 (1914)横山大観と日本美術院を再興。
大正6 年 (1917)帝室技芸員。
大正7 年 (1918)帝国美術院会員に推挙されこれを辞退する。
昭和5 年 (1930)神奈川県横浜市で逝去。58歳。
下村観山の作品をお持ちのお客様、お気軽にご相談ください。
掛軸の場合は、購入された時から入っている箱(共箱)は大切な箱で、共箱には下村観山の自筆のサインと 落款 が押されています。
共箱は、保証書も兼ねており、有る・無しで、買取価格は大きく変動します。
額装の場合は、共シール が大切な評価基準になります。
共シールとは、一般的に、名刺大で、額の裏側に貼られており、下村観山の直筆のサインと題名が書かれ、落款が押されています。
下記のような汚れや剥脱があっても、現状のままお持ちください。
日本画は、「蔵シミ」や「ほし」と言われる汚れが出やすく、買取価格も変わってくるので、出来ればご確認ください。
明るい所か、ライトをあてて画面を良く見てください。
鑑定書の有無に関わらず、まず当店で無料の真贋の判断やアドバイスをさせて頂きますので、お電話でご相談ください。
一般的に絵画の鑑定は、美術俱楽部やそれぞれの指定された鑑定機関で行われており、その場合、真贋を問うだけで、約3万円~5万円かかり、有料です。
【所定鑑定人・鑑定機関】
東京美術倶楽部鑑定委員会
当店では高額な作品も扱っております、一例ですがご覧ください。
お買取りさせて頂いた作品は価格を表示してホームページや店頭で販売しています。
下村観山をはじめ買取させていただいた作家の作品も数多くあります、是非ご覧ください。
当店には下村観山の愛好家やコレクターのお客様もおられ、新しい作品の入荷をお待ちです。
下村観山の作品をお持ちのお客様は、お気軽にご相談頂ければ適切なアドバイスをさせて頂きますので、是非お問い合わせ下さい。
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- 『Hanako WEST』4月号
- 『骨董古美術の愉しみ方』(4月16日発行)
- 『近代盆栽』9月号
- 『Hanako WEST』11月号
- 『ORANGE travel』2006年 SUMMER
- 『婦人画報』2004年9月号
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- 『Grazia』6月号
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- 『Hanako WEST』4月号
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下村観山 略歴
和歌山県和歌山市の、代々紀州徳川家に従えた能の幸流小鼓、能楽師の家に生まれた。
本名は晴三郎である。維新後は、明治14年に一家をあげて上京し、祖父の知人である金工師・藤島常興の 弟子 となる。藤島常興に画才を見いだされ、日本 画家 の狩野芳崖を紹介され、幼くして狩野芳崖、橋本雅邦に 師事 した。明治22年に東京美術学校に第一期生として横山大観らと共に入学。
岡倉天心に認められ卒業後、助 教授 に推薦されたが、翌年に辞任。
「天心の頭脳が観山の手を動かした」といわれるほどの薫陶を受け、日本美術院 設立に尽力した。
「観山」の 画号 は、美校入学の頃に使い始めたとされる。
東京美術学校では、再び狩野派の筆法の修練から始め、やまと絵の線や色彩の研究にも大いに励み、調和を重んじた穏やかな色彩と卓抜した線描による、独自の 画風 を作り出していった。
また、明治40年第一回文展に 審査員 となり秀作「木の間の秋」を送った。
天心没後の大正3年に大観と共に日本美術院を再興し、深い古典研究に基づく数々の名作を残した。
横山大観や菱田春草などと 院展 に出品し、卓抜した画法で高く評価された。
文部省の命を受けてヨーロッパに留学し、色彩の研究を第一の目的として、西洋画の研究や 模写 を行った。
こうして帰国した下村観山の作品は 西洋画 と日本画の表現を組み合わせたエキゾチックなものへと変化し、優美な色彩と線描の巧みさに更に磨きをかけたものとなる。
留学後も 文展 の審査員をつとめるなど 日本画 の隆盛に力を注ぎ、作品は政府買い上げとなる。
明治40年、文部省美術 展覧会(文展)が設立されると、審査員として「木の間の秋」を出品、五浦の雑木林に取材したという、同作の確かな自然描写と 琳派 を思わせる装飾性は、高い評価を得る。
また、文展の開催に伴って、新派の「国画玉成会」が天心を会長として設立されると、明治41年の第1回展に「大原御幸」を、翌年の研究会展に「小倉山」を出品し、古典研究の成果を余すところなく発揮した。
大正6年 帝室技芸員 に任命され、大正8年に帝国美術院会員に推されたが辞退し、在野精神を貫いた。
下村観山の 作風 は、大和絵、琳派、宋元画の手法を使ったおだやかなものである。
卓越した 技法 と徹底的な古典研究からなる穏健な 画風 を確立させた。
漢画・大和絵・琳派などの技法を復活させ、気品に満ちた美しい色彩の作品を描いた。
確かな技巧、深い東洋画への洞察による高純な 名品 の数々を残した。
狩野派、琳派等の徹底した古典研究と卓抜した技法に裏打ちされた温雅な作品が多い。
後年は 屏風 絵を得意とし、モチーフを手前から奥に向かって重ねていく技法などで、伝統 的な画風でありながらモダンな斬新性も表現した。代表作の「白狐」「弱法師」のように物語性の強い作品も多く、絶妙な色遣いで 晩年 まで絵筆を振った。
今村紫紅や安田靫彦・小林古径ら美術員院第2世代に大きな影響を与えた。代表作に「大原御幸」「弱法師」「白狐」「小倉山」「不動」「東海道53次絵巻」などがある。
下村観山の主な出来事や作品の年表
明治 6 年 (1873)和歌山県和歌山市に生まれる。
明治15年(1882)藤島常興、狩野芳崖に 師事。狩野芳崖の紹介で橋本雅邦に 入門。巨勢小石から大和絵をまなぶ。
明治22年(1889)東京美術学校第1期生として入学。同期に横山大観、西郷孤月。
明治27年(1894)東京美術学校 を卒業し21歳で助教授となる。
明治28年(1895)日本絵画協会第1回共進会で『仏誕』が銀牌を受賞する。
明治31年(1898)同校騒動で校長岡倉天心の辞任にともない辞職。日本美術院 創立に参加。
明治34年(1901)寺崎広業と共に美術院正員のまま東京美術学校 教授 に復帰。
明治36年(1903)水彩画 研究のため、文部省留学生としてイギリスへ派遣される。
明治38年(1905)帰国する
明治39年(1906)横山大観、菱田春草、木村武山らと茨城県五浦に移転する。
明治40年(1907)日本美術院、紅児会等による国画玉成会結成に参加、評議員。
大正 1 年 (1912)上京する
大正 3 年 (1914)横山大観と 日本美術院 を再興。
大正 6 年 (1917)帝室技芸員。
大正 7 年 (1918)帝国美術院 会員に推挙されこれを辞退する。
大正11年(1922)フランスサロン準会員。
昭和3 年 (1928)多年にわたる日仏両国の美術交流への貢献により、仏政府よりコマンドール・カムボージュ勲章受章。
昭和 5 年 (1930)神奈川県横浜市で逝去。58歳。
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