良寛 買取
仏の心を子供たちや周りの人たちに教えるような優しくも厳しい眼差しの作品を多く作りました。
禅僧として清貧に生きた良寛は、日本のみならず世界中で高く評価されており高価買取しております。
安田靫彦は、生涯をかけて歴史画に取り組み、良寛の鑑定では日本の第一人者です。
日本一、歴史ある
京都祇園骨董街にあります。
京都は千年も続いた都です。
京都祇園骨董街の中でも当店は、歴史的保全地区に指定されています。
約80軒の古美術骨董商が軒を連ねる、
日本でもトップの祇園骨董街にある老舗の骨董店です。
京都祇園で小売販売している
老舗骨董店だからこそ高価買取出来るのです。
世界各国から1日100名近くのお客様がご来店頂いております。
店頭には買取商品を常時2000点以上展示販売しており、
愛好家やコレクターの方が品物の入荷をお待ちです。
買取依頼のお客様に納得して頂くことを
第一と考えております。
ホームページや店頭にて販売する価格を提示して、買取りさせて頂いております。
是非、ご来店頂くか、ホームページをご覧下さい。
京都祇園で昭和56年に開業、長年の信頼と実績があります。
良寛の作品ー査定・買取ポイントのアドバイス
良寛(りょうかん)・特徴と技法
1758年(宝暦8)~1831年(天保2)74才没。
江戸時代後期に活躍した 曹洞宗 の僧侶、漢詩人、歌人、書家です。
越後国出雲崎(現在の新潟県出雲崎町)の名主の長男に生まれました。
父は地元の名主で俳人という、名家で育ちました。
俗名は山本栄蔵または文孝。
18歳のとき出家し、良寛といい、大愚と号しました。
備中玉島(岡山県倉敷市)の円通寺の国仙和尚に 師事 し、諸国を旅しました。
1796年、38歳の頃越後に帰りますが、生地の出雲崎には行かず、各地の空庵を求めました。
生涯寺を持たず、名利にとらわれぬ托鉢僧として生涯を送りました。
48歳の時に、越後国蒲原郡国上村(現在の燕市)国上山、国上寺の五合庵にて 古書画 を学びました。
「秋萩帖」はその手本として自ら選んだとされています。
「五合庵」とは、一日五合の米があれば良いと農家から貰い受けたことからこの 銘 が付けられました。
五合庵の良寛は何事にもとらわれない、といった生活であったと言われています。
難しい説法を行わず、自らの質素な生活を示す事や、簡単な言葉によって一般庶民に解り易く仏法を説きました。
その無欲恬淡な性格からか、老若男女を問わず、あらゆる階層から親しまれました。
良寛は和歌の他、狂歌、俳句、俗謡、漢詩、書に巧みで、和歌や漢詩など多くの 逸品 を残しています。
深い思想と高度な学識に裏付けされた 名品 の数々を残しています。
その人間性が表れた書は、様々な人々の共感や信頼を得、今も多くの人々に愛され続けています
良寛の 鑑定 では著名な作家の安田靫彦が日本の第一人者です。
良寛の作品 作風と買取価格のワンポイント
良寛の純真な人間味と禅僧としての厳しい生き方が伝わってくる、エネルギーにあふれた 逸品は高価買取致します。
安田靫彦は、生涯をかけて歴史画に取り組み、良寛の鑑定では日本の第一人者です。
偽物も多くありますが、良寛はたくさんの書や短冊、色紙、掛軸、屏風、手紙などを残しています。
若年 の作品よりも、独自の境地を築いた晩年の 名品 が高価買取対象です。
良寛の作品をお持ちのお客様、お気軽にご相談ください。
良寛の掛軸の場合、共箱は滅多にありませんが、初めから入っている箱(共箱)は大切な箱で、共箱には良寛の自筆のサインと 落款 が押されています。共箱は、保証書も兼ねており、有る・無しで、買取価格は大きく変動します。
汚れや傷みがある場合でも、現状のままお持ちください。
鑑定証 の有無に関わらず、まず当店で無料の 真贋 の判断やアドバイスをさせて頂きますので、お電話でご相談ください。一般的に 絵画 の 鑑定 は、美術俱楽部やそれぞれの指定された 鑑定機関 で行われており、その場合、真贋を問うだけで、約3万円~5万円かかり、有料です。
【所定鑑定人・鑑定機関】
(財)良寛記念館
新潟県三島郡出雲崎町米田1
0258-78-2370
当店では高額な作品も扱っております、一例ですがご覧ください。
お買取りさせて頂いた作品は価格を表示してホームページや店頭で販売しています。
良寛をはじめ買取させていただいた作家の作品も数多くあります、是非ご覧ください。
当店には良寛の愛好家やコレクターのお客様もおられ、新しい作品の入荷をお待ちです。
良寛の作品をお持ちのお客様は、お気軽にご相談頂ければ適切なアドバイスをさせて頂きますので、是非お問い合わせ下さい。
良寛の買取実績と買取価格の解説
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良寛 略歴
1758(宝暦8)年、越後国出雲崎(現在は新潟県三島郡出雲崎町)生まれ。
俗名は山本栄蔵、または文孝、大愚と号す。
父はこの地区の名主・橘屋山本左門泰雄であり、他にも石井神社の祠職を務めるなどした。
また、以南という俳人でもあった(異説では桂誉章の子、現在の新潟県新潟市秋葉区の大庄屋)。
良寛は出雲崎の名主であった父の後を継ぐために、名主見習いを始めた。
幼少のころより、町名主の 家督 を継ぐ身として、読み書きそろばんを習い、寝食を忘れて読書に夢中になる聡明な少年だったという。
13歳で、家から離れて江戸帰りの儒学者の学問塾に通って和漢の教養を深めた。
18歳の時に名主見習いになるが、人間関係のいざこざに辟易し、一カ月半で 家督 を捨てて隣町にある光照寺に飛び込んで突如出家することとなる。
子供の頃によく勉学を積んだ 曹洞宗 光照寺にて修行をし、善を学び、この頃に良寛大愚と名のったといわれる。
この頃は、全国各地に米騒動が頻発しており、越後にも天災、悪疫が襲っており、凶作により餓死者を出した。
村人の争いを調停し、盗人の処刑に立ち会っていた良寛が見たものは、救いようのない人間の哀れな世界であり、両親の説得にも構わず良寛は頑なに修行を続けた。
出家後、1779年(安永8)22歳のころに、越後を訪れた国仙和尚に自ら 弟子 入りを志願し、備中玉島(岡山県倉敷市)の 曹洞宗 の禅寺「円通寺」の国仙和尚を生涯の師と定め、師事 した。
玉島は倉敷市の西、瀬戸内海に臨む温暖な港町で、良寛が移ってきた頃は備中松山藩の飛び地で、港には備中の各地からの物資が集散し 豪商 の蔵が並ぶ、活力に満ちた豊かな土地だった。
円通寺の格式は高く、その門に入るには厳しい戒律を通過しなければならなかったとされ、教えでは、経を学ぶことより、勤労に務めることを第一としていた。
「一日作らざる者は、一日食わず」と国仙和尚は日を変え言葉を変え良寛に説いた。
その教えは、後の良寛の生き方に強い影響を与えた。
良寛が修行した僧堂は、「良寛堂」として今もその当時のまま残されている。
1790年(寛政2)に印加(修行を終えた者が一人前の僧としての証明)を贈られた。
翌年、良寛34歳の時、師の国仙が亡くなったのをきっかけに全国の行脚を始める。
「好きなように旅をするが良い」という言葉を残し世を去った国仙和尚の思いを受けて、諸国を巡り始めた。
父の訃報を受けてもなお放浪の旅は続け、義提尼より和歌の影響を受けた。
1796年頃、38歳の頃越後に帰ったが、生地の出雲崎には行かず、各地の空庵を求めて居た。
48歳の時に、越後国蒲原郡国上村(現燕市)国上山、国上寺の五合庵(一日五合の米があば良いと農家から貰い受けたことからこの 銘 が付けられた)にて 古書画 を学んだ。
「秋萩帖」はその手本として自ら選んだとされる。
五合庵の良寛は何事にもとらわれない、といった生活であった。
国上山とは、新潟県燕市に位置する山で、標高は312.8mの小高い山の中にあった。
また、実家は弟の由之が継いでいたが、公金横領の嫌疑をかけられて、家財没収のうえ所払いとなる。
所払いとは、江戸時代の刑罰のひとつで、居住の町村から追放し、立ち入りが禁止となる罰。
晩年の59歳頃に乙字神社境内の草庵、70歳頃に島崎村の木村元右衛門邸内にそれぞれ住み、生涯寺を持たなかった。
故郷周辺を転々として70歳で貞心尼と出逢い、74歳の生涯を閉じた。
新潟県長岡市の隆泉寺に眠る。
子供たちと遊ぶのが好きで、世の中の俗事にこだわらず、名声や財産への欲望もなく、生涯寺を持たず、自らの質素な生活を示し、簡単な言葉によって庶民に分かりやすい仏法を説いた。
その生涯にわたる姿勢が「人間良寛」の魅力となって、村人ばかりでなく日本人の心のふるさとのような人として、現代にも生き続けている。
その無欲恬淡な性格からか、老若男女を問わず、あらゆる階層から親しまれた。
和歌の他、狂歌、俳句、俗謡、漢詩に巧みで、書も能くした。
詩歌や学問を通して良寛和尚と交流を深めた人物としては、弟子 であり、歌人でもあった貞心尼や、儒学者の亀田鵬斎、国学者の大村光枝など。
詩集に「草堂集」、歌集に 弟子 の貞心尼編「蓮の露」がある。
良寛の「たくほどは 風がもてくる 落葉かな」、「散る桜 残る桜も 散る桜」などの句は、自身の自然のまま、無欲恬淡な人生観を詠っている。
生きとし生けるものに慈愛の心を注ぎ、子どもらと戯れ、友と語りあった生涯だった。
一般民衆のみならず、見る者の心にあたたかさと感動を与えてくれる。
彼の歌は正直で純真である。
人間と自然に対して純真な愛を感じ、その心のままを正直に平易に詠み、個性が赤裸々に出て人を感動させる。
漢詩の才にも恵まれ、自筆の「草堂詩集」(未刊)、「良寛道人遺稿」がある。
良寛の書は古典を正確に学び、人格がにじみ出ていて高く評価され愛好する人が多い。
歌集の自筆稿本はなく、没後に 弟子 貞心尼編「蓮の露」、村山半牧編「良寛歌集」、林甕雄編「良寛和尚遺稿」などがあるのみである。
良寛の主な出来事や作品の年表
1758年(宝暦8)新潟県(越後、出雲崎)の名主橘屋山本家の長男に生まれる。
1765年(明和2)8歳、尼瀬にある曹洞宗光照寺の寺子屋に通う。
1770年(明和7)13歳、地蔵堂の漢学塾、三峰館にて大森子陽に学ぶ。
1775年(安永4)18歳、三峰館を出て、名主見習役となるが、のちに生家を出奔、出家する。光照寺にて自ら髪を剃ったといわれる。
1779年(安永8)22歳、光照寺に来錫した備中玉島の 曹洞宗 円通寺におもむき、国仙和尚に従い得度。
随行して円通寺に赴き、本格的な仏道修行に入る。良寛大愚と 銘 を名のる。
1783年(天明3)26歳、母の秀子逝去。
1785年(天明5)28歳、亡母三回忌に一時帰郷。紫雲寺村観音院で宗龍和尚に想見。
1790年(寛政2)33歳、国仙和尚から印可の偈を授与。翌年、和尚の示寂を機に諸国行脚の旅に出る。
1792年(寛政4)35歳、帰郷(39歳の説もある)。以降、寺泊郷本の空庵他、各地に仮寓する。
1795年(寛政7)38歳、父の以南、京都の桂川に身を投ず。
1796年(寛政8)39歳、以南の一回忌法要で上洛。故郷に帰郷。この時に同郷生れの僧、大忍魯仙と逢ったのではないか。
1801年(享和1)44歳、江戸の国学者、大村光枝等が五合庵に良寛を訪ねる。
1804年(文化1)47歳、この頃から五合庵に定住。
1805年(文化2)48歳、真言宗国上寺の五合庵に定住。托鉢をしながら詩歌など創作する。
1807年(文化4)50歳、この頃から「秋萩帖」を学び始めたか。懐素の「自叙帖」を学び始めたのもこの頃か。
友人、三輪左一没。西照坊からの三輪宛書簡が残る。
1808年(文化5)51歳、法友、有願没。
1809年(文化6)52歳、江戸の漢学者、亀田鵬斉と交友。
1810年(文化7)53歳、弟、由之に家財取上げ、所払いの判決。「人も三十四十を越ては」の書簡を送る。
1811年(文化8)54歳、この頃自筆詩集「草堂集貫華」成る。「小楷詩巻」もこれに続いたであろう。
1812年(文化9)55歳、三峰館の学友、富取之則没。
1816年(文化13)59歳、遍澄に付き添われて乙子草庵に移住。その後、江戸、東北各地を巡遊。
最後の自筆詩集「草堂集」はこの頃に成るか。
1817年(文化14)60歳、維経尼宛「君欲求蔵経」書簡はこの年の暮に。
1818年(文政1) 61歳、由之より道元の「傘松道詠集」を贈られる。
1819年(文政2) 62歳、この頃自筆歌集「布留散東」成る。
この頃、阿部定珍の「万葉集校異」に「万葉集略解」を参考にして朱墨で注を書き込む。
1820年(文政4) 64歳、この年 号 の書入れがある長歌「月の兎」の遺墨がある。万葉短歌抄「あきのゝ」はこの頃の作か。
字の形から「法華転」もこの頃の作と思える。
1826年(文政9) 69歳、島崎の和島の木村家庵室に移住。木村家庵室で貞心尼と初見、貞心尼を 弟子 にする。
以降、条幅等の遺墨 名品 が書かれる。
1828年(文政11)71歳、三条大震災が起こる。この時の書簡と詩が遺る。
1831年(天保2) 74歳、1月6日、木村家庵室で由之、貞心尼等に看取られながら死去。
良寛は円通寺を離れてからは、生涯にわたって寺を持たず、貧しいながらも清らかな生き方を通した。
そうした中で、多くの詩や歌を詠み、それを書き遺した 逸品 は、日本美の極致とまで絶賛されて、今に伝わっている。
又、子供達と遊んだ等の逸話から慈愛に満ちた人柄が現代の人達にも広く親しまれている。
楷書では陶弘景、黄山谷、草書では懐素、王羲之、孫過庭、尊円親王など多くの書を学び、仮名では小野道風の「秋萩帖」を学んで、古典の書法を体得した。
また、自由に自分の感性で新たな世界をつくり出し、最晩年の古筆の書に至っては、無限の含蓄と余韻を秘めた気品高い精神的な世界を醸し出している。
夏目漱石は大正3(1914)年に東京朝日新聞に連載していた論評の中で、「心の純なところ、気の精なるあたり、そこに摺れ枯らしにならない素人の尊さが潜んでいる」と、良寛の書を高く評価した。
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