福澤諭吉 買取
福澤諭吉は、「学問のすゝめ」で有名な明治時代を代表する思想家です。
慶應義塾創設者で、自由で平等な教育論で新しい時代を切り開き、人々を啓蒙しました。
福澤諭吉の書や掛軸、屛風などは、高価買取いたします。
日本一、歴史ある
京都祇園骨董街にあります。
京都は千年も続いた都です。
京都祇園骨董街の中でも当店は、歴史的保全地区に指定されています。
約80軒の古美術骨董商が軒を連ねる、
日本でもトップの祇園骨董街にある老舗の骨董店です。
京都祇園で小売販売している
老舗骨董店だからこそ高価買取出来るのです。
世界各国から1日100名近くのお客様がご来店頂いております。
店頭には買取商品を常時2000点以上展示販売しており、
愛好家やコレクターの方が品物の入荷をお待ちです。
買取依頼のお客様に納得して頂くことを
第一と考えております。
ホームページや店頭にて販売する価格を提示して、買取りさせて頂いております。
是非、ご来店頂くか、ホームページをご覧下さい。
京都祇園で昭和56年に開業、長年の信頼と実績があります。
福澤諭吉の作品ー査定・買取ポイントのアドバイス
福澤諭吉(ふくざわ ゆきち)・特徴と技法
1835年(天保5)~1901年(明治34)66才没。
福沢諭吉と言えば、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」で始まる「学問のすゝめ」で有名です。
幕末から明治時代に活躍した思想家、教育家で、慶応義塾の創始者です。
1835年、大阪堂島の中津藩士の次男として生まれました。
19歳の時、蘭学を学び、大阪にでて、蘭学者・緒方洪庵の適塾で学び22歳で塾頭になりました。
1858年に江戸に出仕が命じられ藩屋敷内に「一小家塾」という蘭学塾を開きました。
これが後の「慶応義塾」の始まりとなります。
1859年、日米修好通商条約の批准交換のための使節団に 咸臨丸 船長の従者として参加。
1862年には遣欧使節団にも加わり、仏、英、独、蘭など7か国を訪問。
帰国後に「西洋事情」を著します。
1864年、年幕臣となり外国奉行 翻訳家 をつとめました。
1867年に再び渡米し、帰国後、「西洋旅案内」を著わしました。
1868年には蘭学塾を「慶応義塾」と名付け教育活動に専念するようになりました。
明治新政府に出仕の要請があるものの、官職に就かず、晩年は義塾の運営と啓蒙活動に専念しました。
一万円札にも描かれており、切手などにも使われており、掛軸や 屏風 などが残されています。
福沢諭吉は非常に筆まめで、たくさんの手紙を書いたことで知られています。
また、著名な諭吉の漢詩は気取ったものではなく、ユーモアに富むものも多いと言われています。
代表的な作品は「西洋事情」「学問のすすめ」「文明論之概略」「世界国尽」「西洋旅案内」「分権論」「国会論」「福翁自伝」などがあります。
福澤諭吉の作品 作風と買取価格のワンポイント
福沢諭吉は非常に筆まめで、たくさんの手紙、原稿、漢詩を残しており、高価買取しております。
書画 には簡単な作品から時間をかけた力作があり、また 図柄 や種類によって買取価格は変動します。
福澤諭吉の作品をお持ちのお客様、お気軽にご相談ください。
福澤諭吉の作品の場合は、購入された時から入っている箱(共箱)は大切な箱で、共箱には福澤諭吉の自筆のサインと 落款 が押されています。共箱は、保証書も兼ねており、有る・無しで、買取価格は大きく変動します。
汚れや傷みがある場合でも、現状のままお持ちください。
鑑定証 の有無に関わらず、まず当店で無料の 真贋 の判断やアドバイスをさせて頂きますので、お電話でご相談ください。一般的に 絵画 の 鑑定 は、美術俱楽部やそれぞれの指定された 鑑定機関 で行われており、その場合、真贋を問うだけで、約3万円~5万円かかり、有料です。
【所定鑑定人・鑑定機関】
福澤諭吉の場合、鑑定機関はありません。
当店では高額な作品も扱っております、一例ですがご覧ください。
お買取りさせて頂いた作品は価格を表示してホームページや店頭で販売しています。
福澤諭吉をはじめ買取させていただいた作家の作品も数多くあります、是非ご覧ください。
当店には福澤諭吉の愛好家やコレクターのお客様もおられ、新しい作品の入荷をお待ちです。
福澤諭吉の作品をお持ちのお客様は、お気軽にご相談頂ければ、適切なアドバイスをさせて頂きますので、是非お問い合わせ下さい。
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- 『Hanako 京都案内』
- 『FIGARO japon』12月号
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- 『Hanako WEST』4月号
- 『骨董古美術の愉しみ方』(4月16日発行)
- 『近代盆栽』9月号
- 『Hanako WEST』11月号
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- 『婦人画報』2004年9月号
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- 『Grazia』6月号
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- 『Hanako WEST』4月号
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- 『MORE』12月号
- 『花時間』7月号
- 『東京育ちの京都案内』麻生圭子著 文芸春秋刊
- 『私のアンティーク』
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福澤諭吉 略歴
1835年(天保5)大坂堂島浜(大阪市福島区)にあった豊前国中津藩(大分県中津市)の蔵屋敷で、下級藩士福澤百助、於順の次男として生まれる。
2歳のときに父が亡くなると中津に戻り、下駄作りなどの内職をして、貧しい家計を助けた。
5歳ころから漢学に触れ、その後も「論語」や「史記」など多くの書物をくり返し読み、勉学に励んだ。
14歳で塾に通い始め、19歳で長崎に出て蘭学と砲術を学び、その後、大阪の蘭学者で医師の緒方洪庵の適塾で学ぶようになる。
お金がなく、途中からは塾に住み込みで勉強して、塾長にもなった。
1853年、ペリー率いる黒船が来航したことで、徳川幕府は混沌とし、勝海舟など身分の高くない者からも広く意見を募るようになり、
諭吉もそれまで学んでいた外国語や化学などの知識を用いて、幕府重臣の通訳をするようになった。
1858年、23歳のときには、江戸の藩邸で蘭学塾を開くことになった。
その翌年、外国人の多い横浜を訪れ、外国人は英語ばかり使っていて、オランダ語が通用しないことを知りショックを受ける。
外国人居留地では専ら英語が使われており、これからの時代は英語が必要だと痛感した。
英語を教えてくれる人が近くにいなかったことから、英語とオランダ語を対訳した辞書を基に 独学 で英語を学び始めた。
25歳のとき、幕府の遣米使節に志願して、咸臨丸で渡航。
1859年、前年に締結された「日米修好通商条約」の批准のため、使節団が渡米することになると、咸臨丸船長の従者として参加。
アメリカで見聞を広げ、西欧の法律・議会制度などについて学び、近代教育、病院、保険、銀行などの考え方を学び、日本に伝えた。
アメリカでは、英語の辞書(ウェブスター)を購入し、帰国後は塾の教育を英学に切り替えた。
帰国後は通訳、翻訳家 として欧米の書物を研究、日本の近代化への提言を進めていった。
この頃から 明治維新 まで外交文書や兵学書などの翻訳係として多忙を極めるようになる。
このころから幕府内でも一目置かれるようになり、彼がまとめた砲術書や欧米の 書物 は、他の藩でも学ばれた。
その後も、幕府の使節として欧米を視察し、1866年、31歳のときには、海外で見てきたことを西洋事情という本にまとめた。
1868年、33歳の時には、江戸・築地の蘭学塾を芝(港区)に移して、当時の年号にちなみ「慶應義塾」と名付け、
自らが運営していた蘭学塾を旧幕臣を受け入れるなど身分に捕らわれない教育をおこない、自由で平等な教育論を推し進めた。
明治維新 後は新政府からの出仕を断り、位階勲等を受けず、教育活動に専念した。
慶應義塾創設者として、明治の六大教育家に数えられている。幅広い要人との交流や門下生を政府に投入するなどして、
分権論、憲法・国会論、教育論など新しい制度の骨格作りに大きな影響力を発揮した。
1901年2月3日死去、享年66歳。
福沢諭吉代表作には、「西洋事情」「世界国尽」「西洋旅案内」「学問のすゝめ」「文明論之概略」「分権論」「国会論」「福翁自伝」などがある。
幕末から明治にかけて活躍し、慶應義塾創設者として、明治の六大教育家に数えられている。
代表作「学問のすゝめ」では、生まれながらに上下の差はないのに、貧富の差や身分の差ができるのは、学問があるかないかだと説いている。
庶民でも買いやすい価格にし、漢字には読み仮名を振ったりするなどして、たくさんの読者を得た。
37歳になった1872年に、初編を刊行し、晩年の1876年の第17編まで約340万部が発行されベストセラーとなった。
その後も時事、社会、婦人問題など幅広い分野で数多くの著作を刊行し、啓蒙思想を広めた。
最も多用した 雅号 には、「三十一谷人」がある。
「世俗」と言う言葉が好きで号にしており、それを、分解して三十一谷人とし、ほとんどの揮毫に三十一谷人と書いている。
福沢諭吉の書簡や、掛軸、屏風 などは幕末から 明治維新 ころの資料としてたいへん貴重である。
福澤諭吉の主な出来事や作品の年表
天保5年 (1835年)大坂堂島浜(大阪市福島区)にあった豊前国中津藩の蔵屋敷で、下級藩士福澤百助、於順の次男として生まれる。
大坂堂島浜(大阪市福島区)の豊前国中津藩の蔵屋敷で、下級藩士の次男として生まれる。
2歳のときに父が亡くなると中津に戻り、下駄作りなどの内職をして貧しい家計を助けた。
5歳ころから漢学に触れ「論語」や「史記」など多くの 書物 をくり返し読み勉学に励んだ。
14歳で塾に通い始める。
嘉永6年 (1853年)ペリー率いる黒船が来航したことで、幕府重臣の通訳をした。
安政元年(1854年) 19歳の時に長崎へ遊学して 蘭学 と 砲術 を学ぶ。
安政4年 (1857年)適塾の塾頭となる。
安政5年 (1858年)江戸へ出府。蘭学塾を開く。
安政6年 (1859年)頃、英蘭辞書などをたよりにほぼ 独学 で英語の勉強を始める。
万延元年(1860年)25歳のとき、幕府の遣米使節に志願し、軍艦奉行木村摂津守の従者として、 咸臨丸 で渡航。
アメリカで見聞を広げる。
帰国後は塾の教育を英学に切り替え、その後も幕府の使節として欧米を視察した。
慶応2年 (1866年)31歳のときに、海外で見てきたことを「西洋事情」にまとめ刊行。
慶應4年 (1868年)33歳のときに、江戸・築地の蘭学塾を芝(港区)に移し「慶應義塾」と名付け、教育活動に専念する。
旧幕臣も受け入れ身分に捕らわれない教育をおこない、自由で平等な教育論を推し進めた。
明治5年(1872年)「学問のすゝめ」(初編)を刊行。1876年の第17編まで約340万部を発行となる。
明治12年(1879年)東京学士会院(現在の日本学士院)の初代会長就任。
明治15年(1882年)日刊新聞「時事新報」を晩年に創刊。
明治34年(1901年)2月3日逝去。享年66歳。
立身流居合の達人。
明治維新 後の日本が中華思想、儒教精神から脱却して西洋文明をより積極的に受け入れる流れを作った。
明治維新後は新政府からの出仕を断り、教育活動に専念した。
福沢諭吉は非常に筆まめで、たくさんの手紙を書き、現在わかっているだけで2600通ほどの手紙が確認されている。
宛先は家族や慶應義塾関係者、政財界の人物に宛てたもの。
内容は国政に厳しい意見を述べるもの、慶應義塾の行く末を案じるもの、家族の健康を心配するものなど様々残されている。
諭吉が漢詩などを好むようになったのは44歳以降のことで、若い頃は漢学を嫌っていた。
文化的交遊や門下生から揮毫を求められることが増えたことが影響し漢詩を詠むようになった。
諭吉の漢詩は気取ったものではなく、身内と詠みあうような気軽さがあり、ユーモアに富むものも多い。
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